6 デ リ ー
インターコンチネンタルホテル。ニューデリーの中心部コンノートプレイスの近くに立つ大型ホテルである。 この日は1日デリーの市内めぐり。実は、ムンバイに到着する前日に、オールドデリーで爆弾テロがあり、けが人がでていた。そのため、この日の予定も、オールドデリーにあり、デリー最大の見所でもあるラール・キラー(デリー城)はとりやめ、かわりに、カンディーが火葬されたラージ・ガートに行くことに変更。 |
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ボーイもインド風の服装をしている。 まずは、インド門へ。門のところで、インド軍の兵隊が行進練習をしていて、いくつのも部隊が道路を行ったり来たりしていた。1月26日の共和国記念日に向けての練習のようだ。 |
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インド門は、第1次大戦で戦死したインド兵の慰霊碑である。第1次大戦でインドは、英国に協力する引き換えに、戦後の独立が期待されたのだが、結局、独立は果たされず、第2次大戦後を待たざるを得なかった。 門は英国によって建造され、門から西に続く通りに、大統領官邸や国会議事堂などがある。 |
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門の真下のスペースには式典正面のステージが設けられていた。ここから象やラクダも参加するというパレードが出発するのだ。 冬の北インド、特にデリーやアグラの付近は霧に覆われることが多い。この日もすごい霧で、視界がよくない。画像が白っぽくなっているのは、霧のためである。 |
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続いて、フマユーン廟。ムガル朝の初代皇帝バーブルを引き継いだのが、第2代フマユーンである。16世紀後半に皇帝の地位にあった。彼の死後、第3代アクバルがこの廟を建設した。アクバルの治世のころ、ムガル朝は最盛期を迎える。 | |
霧のために見にくいが、中央のドームは大理石でできていて、その形はタージ・マハルの原型のようである。一方、ドームの下部は、赤い岩石で作られていて、コントラストが美しい。 手前に参道が少し写っているが、参道も赤い岩石で造られている。 |
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赤い色をしているのは自然石の色であって、れんがではない。石の色は違うが、構造的にはタージ・マハルに似た形式なのである。 廟は、四方どこから見ても同じ形に見えるよう設計されていて、周囲を庭園が取り囲んでいる。 |
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建物中央に置かれた大理石の墓は仮のものであって、実際の墓は、真下に埋葬されている。 | |
観光地には、悪名高き外国人料金の制度がある。フマユーン廟の場合は、インド国民が10ルピー(約36円)であるのに対して外国人は10ドル(約1150円)と書いてある。 | |
廟を去ろうとしたときに出会った老婆。 | |
デリー市内移動の際に撮影した画像。 | |
バス停。 | |
交差点にて。 | |
続いて、ラージ・ガート。インド独立運動の中心人物だったマハトマ・ガンディーが火葬された場所である。 1948年に暗殺されたガンディーは、ここで火葬の後、翌日、遺灰が川に流された。ここにはガンディーの墓はないが、墓地に準じて、彼をしのぶ人たちがたくさん訪れている。 |
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中学生たちは遠足できたのだろうか。 | |
こちらは家族づれ。 | |
黒大理石の台のあるところが、火葬がおこなわれた場所を示している。 | |
ラージ・ガートの入口付近で行われていた集会。 | |
デリーの街にて。 | |
馬車も走っている。観光用だろうか。 | |
昼食のレストランの前にて。 | |
昼食のレストランのある商店街。 | |
続いて訪問したのはクトゥプ・ミナール。 デリーの南15kmの郊外に建つ塔。イスラム系である奴隷王朝のクトクプ・ウディーン・アイバクがヒンドゥー教徒に勝ったことを記念して、13世紀に建てられた塔である。 |
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塔は72mであり、イスラム建築でみられる塔に似ている。塔の内部には階段があって、上まで上れるようになっているが、現在、観光客は上ることはできない。 塔をうまく撮影できる場所がなく、ほかの建物の隙間を利用してかろうして全景を撮影することができた。 このほか、鉄柱がある。この鉄柱は、4世紀にものであるが鉄の純度が高いために現在でも錆びていない。 |
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上部だけを撮影したもの。階段からののぞき窓や細かい彫刻がわかる。 | |
アラーイーの塔。もっと高い塔を造ろうとして、途中で放棄されたものである。 このあと、空港に行き、ジェットエアでコルカタに向かった。 |