7日目  ウ ブ ド を ジ ャ ラ ン ジ ャ ラ ン

  

ウブド市場で屋台食
  朝起きると、土砂降りの雨だった。スコールにしては少し降っている時間が長い。いつになったらやむものやら。
 
 7時半を過ぎたので、朝食をとりにレストランへ。この日は、卵料理を目玉焼きにしてもらって、パンはクロワッサン。飲物はいつもと同じくコーヒー。4泊目だが前日はホテルで朝食をとらなかったので、3回目の朝食で、変化が少ないため、ちょっと飽きてきた。

 下左  少し小降りになってきたので9時ごろにホテルを出発。モンキーフォレスト通りは早くも渋滞していた。
 
 
 上右  サッカー場の近くでは女子生徒が行進練習ができずに雨宿り中。

 左  ときおり激しさをます雨。モンキーフォレスト通りの西側の車道脇は滝のように水が流れていた。歩道は大丈夫だったが、どこから歩道に上がるのか、と言われれば、車道脇の滝の流れを横切らなばならない。

 小学生が裸足で歩いている。靴は浸水するからだろうか。でも街中で裸足ってのは危なそうだな。
 
 雨の中、ウブド市場にやってきた。ウブド到着日に続いて、今回の旅では2回目の訪問。観光客向けの土産物センターと化している市場だったが、地元客向けの売場がないことを不思議に思い、再びやってきたのだ。

 駐車場に面した新しい建物は1階も2階も土産物店が入っている。写真の真ん中の階段下に行って、地元客向けのエリアを発見。
 
 階段下で、ビニール袋に詰めた惣菜やお菓子を売っていた。路上屋台というべきか。左端に立っている人は、何か食べている。紙で包んだナシチャンプルのようだ。
 
 さらに進むとナシチャンプルを作って売っていた。こりゃぁ、食べるしかない。
 
 自分も1つ作ってもらうことにした。左上の水色のふたの容器にご飯が入っている。ご飯を広げて、その上に香辛料を塗って、おかずをのせていくようだ。
 
 先ほど、紙に包んだナシチャンプルを手づかみで食べていた人がいたので、同じ食べ方をするつもりだったが、観光客には柳素材のようなかごにのせて、スプーンをつけてくれるようだ。

 卵なしだと2000ルピアだが、卵が2000ルピアで、あわせて4000ルピアのようだ。味はまずまずだが、地元の食べ物を食べることができて満足。
 
 
 階段を下りて、地下階の真ん中の広場に出た。そこは青果売場になっていた。雨で水がついた上に商品がおかれていて、衛生面がちょっと気になる。

 下左  青果売場の全景。2階に見えるのが1階。1階、2階は観光客向けの土産物売場だ。

 下右  地下は生もの以外の食料品売場。ただ、肉売場が見つからなかった。肉売場もあってよいはずなのだが。
 
 
 
 サテ・アヤム(鶏サテ)の屋台を発見。いい匂いがしていて、食べていくことにした。

 
 炭火で焼いている。
 
 タレを無造作につけて出されたので、見た目はよくないが、焼きたてで柔らかかった。6本で5000ルピア。

 このほか、麺類の屋台や鶏肉ご飯の屋台など数軒の屋台が営業していた。こういう屋台があることがわかっていたら、ホテルで朝食をパスしたのだが。
田んぼを見ながら散歩
  ウブド市場を出ると、ようやく雨があがっていた。これからウブドの街はずれを歩いて、田んぼのある風景を見ることにする。

 ジャラン・ラヤ・ウブドとモンキーフォレスト通りの交差点に王宮があるのだが、その200mほど西に小川が流れている。さらに西に200mほど行くと、南に下るジャラン・ビスマがある。この通りを南下して、モンキーフォレスト近くまで行くことにした。

 歩きはじめて5分ほどで、田んぼが広がる風景が現れた。18年前には、モンキーフォレスト通りでも、サッカー場より南ではこうした風景が見られたのだが。ヤシの木もあって、熱帯の田んぼって感じがあふれている。
 
  さらに歩くと田植えをやっていた。日本でも何十年か前は手作業で田植えをしていたが、このような風景見かけなくなり、機械化されてしまった。

 バリ島では1年に米は何回つくるんだろうか。2期作なのか3期作なのか。
 
 少し歩くと、玄関前にお供えを供えている人がいた。玄関前のお供え、一見、無造作に置いてあるようにも見えるが、実際にはさまざまなルールがあるようだ。
 
 この道を南へと向かった。両側はほぼ田んぼだが、田んぼが放棄されて荒れているところもある。
 
 田んぼが何段かの棚田になっているところもある。小規模だが棚田には違いない。
 
 通りは南端までやってくると、突然、東に曲がる。やがて小川を渡る。このときは、雨のあとで水量がとても多かった。さらに東に行くと、モンキーフォレストの少し北のほうでモンキーフォレスト通りに合流する。
 
 モンキーフォレスト通りに入ると、少し北へ行けば、泊まっているホテル「ウブドイン」だ。レストランは通りに面していて、「デ・ワルン」と名付けられている。宿泊者以外も入りやすくなっている。

 いったん部屋に戻って、1時間ほど休んだ。
ワルンで昼食とって街歩き
 ホテルで休憩ののち、昼食と街歩きのために再び外出。モンキーフォレスト通りはモンキーフォレストの前で東西方向の通りとなる。

 その東西方向の部分で、細い路地があったので、奥に入ってみた。すると、何と田んぼが広がっていた。18年前には、モンキーフォレスト通りからも見ることができた田んぼ。今はもう見ることはできない。でも、通りに沿って建っているホテルやレストランの裏手には、まだ多少は田んぼが残されていたのだ。なんだかほっとした気分になった。
 
 このあと、まずAPAに向った。翌日、空港までの足を確保するためだ。当初は、13時ごろのバンがあればと考えていたが、時間が未定ということで、ウブド到着日にやってきたときに、前日に再度、来るよう言われた。

 結局、翌日は、昼頃にはバンがなく、10時30分の便を利用するように言われた。ペラマ社なら13時ごろに便があるのだが、空港まで行かないので、クタからタクシーに乗らねばならない。それで、10時30分のバンを予約した。60000ルピアでペラマ社と同じで、空港まで行ってくれる。

 空港までの足を確保したあと、昼食場所を求めて歩いた。外国人向けではない、昔ながらのワルンがあったので、ここで昼食をとっていくことにした。
 
  中に入ると、席は壁に向って並んでいた。
 
 調理場は道路に面している。自分の注文した料理ができあがっていくさまを見ることができる。
 
 
 上左  ビンタン中。入店した時、出て行った客がビンタン大瓶の空瓶を残していったので、自分も注文。冷蔵庫をみてくらてのだが、大は売り切れで、中でよいかと言われた。まぁ仕方ないか。30000ルピア。

 上右  イカン・ゴレン(焼魚)を注文したのだが、魚と一緒に野菜の炒め物が運ばれてきた。注文していないというと、イカン・ゴレンについてくるとのこと。魚より野菜のほうがメインのような焼魚だ。

 左  イカン・ゴレン。何の魚だろうか。魚は何か不明。魚の種類へのこだわりはないのかもしれない。辛いタレをつけていただく。35000ルピア。
 
 ナシ・ゴレン。焼飯の上に目玉焼きを乗せるのはインドネシア風だが、せんべいがついてこなかった。15000ルピア。

 18年前には、このようなワルンがモンキーフォレスト通りにもあったのだが、今は絶滅してしまっている。かろうじて、裏道には残されていてほっとした。
 
  昼食後、ウブドの裏道をジャランジャラン。18年前の訪問の際には、モンキーフォレスト通りなどでも犬を頻繁に見かけたのだが、今回はあまり見ないなって思っていた。でも、裏道を歩くとよく見かけた。

 18年前の印象では、ウブドの犬は皮膚が荒れて、毛がなくなっているような個所を持つ犬が多かったと思う。でも、今回はそのような犬を見かけなかった。きれいな犬が多かった。

 ウブドの犬は鎖や紐でつながれていなくても飼い犬だ。だから首輪をしている。それでも、18年前には野犬のようなワイルドさがあって、出会うと怖かったのだが、おとなしくなったような気がする。
 
 ジャラン・ラヤ・ウブドを市場から東へ向かったところにあるダラム・プリ寺院へとやってきた。18年前はここで行われた火葬を見学した。

 竹で作られた滑り台のようなものがつくられていた。葬儀に使われるのだろうか。18年前だがこのような滑り台の上に、棺を入れた黒牛の張りぼてが置かれて、火葬の直前の儀式が行なわれた。だから、葬儀のためのものだと思われる。
 
 この石段の上のスペースが火葬の場だった。棺は黒牛のはりぼてに入った状態で、ここで火葬された。

 この石段の周りは多くの人が集まっていて、そばには近寄れず、少し離れたところから火葬を見ていた。

 印象深かったのは火葬がまるでお祭りのような感じだったことだ。黒牛に入った棺は王宮での儀式のあと、この寺院へ運ばれたのだが、そのパレードはお祭りのパレードのノリだった。寺院の中には屋台も出て、お祭り気分の中で火葬が行われた。
 
 18年前に泊まったゲストハウスがあった付近。市場の少し東で、ジャラン・ラヤ・ウブドから裏道を少し入ったところだ。

 かつては道の両側に竹垣があってその中にゲストハウスがあったのだ。今は、建物がぎっしり建っている。
 
 ゲストハウスのあった場所はわかった。門だけが残されていたからだ。この門から中に入ると中庭があり、その中にスタッフの滞在する建物があり、さらに歩くと、コテージ風の客室棟があった。

 今はマッサージ店がこの中にあるのだが、昔のゲストハウスの敷地の一部分だけで、ほかの敷地は別の建物の敷地になっているようだった。
 
 モンキーフォレスト通りまで行き、ホテルに向った。サッカー場では運動会らしき催事を行っていた。これはパン食い競争だろうか。
 
 ホテルに戻り、バリハイのプレミアム缶を飲んで休憩。芸能鑑賞に出かけるまで1時間ほど休んだ。
ジェゴグと夕食
 この日はウブドで最後の芸能鑑賞、ジェゴグを楽しむ。グループはスアラ・サキット。ウブドの北の方にある村の集会所で催される。歩いて行くのは無理で、19時から開始なのだが、18時30分にインフォメーションからシャトルが出るというので、それに乗車する。そのため18時前にホテルを出発した。

 サッカー場の横にさしかかると運動会が終わったところだ。勝ったチームが歓声をあげる一方で後片付けが始まっている。
 
 インフォメーションでジェゴグのチケットを買い求める。80000ルピア。シャトルバスは、インフォメーション内の椅子に座って待つように指示された。待ったのは5組10人ほど。シャトルに乗れるのだろうかと心配した。

 王宮の横に止まっている車へ移動。シャトルといっても、白タクを借り上げて利用しているようだった。費用は主催のグループが負担しているのだろうか。人数が多く、自分は運転手の横に座ったのだが、後部の座席はぎゅう詰めに詰め込まれたようだ。
 
 会場までは車で15分ほど。暗い中を5kmほど走った。こりゃ、歩いて向うのは絶対に無理だ。街灯もない山道を走って、小さな集落の集会所に到着。帰りの車は下りたところから出るという。乗れなければ大変なことになるから注意しなくちゃ。

 すでに到着していた客はタクシーなどでやってきたのだろうか。シャトルでやってきた客と合わせて20数人。このなかで日本人が半分近くいる。日本人率が非常に高い。
 
 ジェゴグは竹のガムランだ。写真右上に写っているのが、巨大なジェゴグで、ジェゴグの特徴はこのような巨大な竹のガムランを使うことだ。

 ジェゴグはもともとは、バリ島の西部のヌガラで始まったものだ。18年前のバリ島旅行では、APAの主催するツアーでウブドから日帰りでヌガラまで行き、海岸でジェゴグの演奏を聞きに行った。見学者が自由にジェゴグを鳴らす時間もとられていた。ウブドを午後に出発して、深夜に帰るような日程だった。そんなわけで、ジェゴグは気になっていて、鑑賞することにしたのだ。このときも、ほぼ全員が日本人だった。ジェゴグは日本人好みなのだろうか。
 
 
 上左  ジェゴグの演奏に合わせていろいろな踊りが演じられる。でもこの日は、メインはジェゴグの音色が主役だ。

 上右  客席から見て舞台の右側のジェゴグ。

 左  舞台中央に出されて演奏される巨大ジェゴグ。

 青銅器のガムランとは違うネ音色を楽しめて、やってきてよかった。
 
 終了後に出演者勢ぞろい。このとき、お客さんも舞台に上がてくださいと促された。

 このあと車で15分かけ、王宮まで戻った。
  王宮からモンキーフォレスト通りを歩く。18年前のウブド滞在の印象のひとつに、歩道が側溝の上にあって、側溝のふたがところどころ壊れていて、とても歩きにくかったことがある。今回は見違えるように改善されていた。ふたの壊れているところはほとんどなかった。ゼロではなく、少しはあったが、危険というほどではなかった。

 レストランを探したが、入りたいと思うような店がなく、たまにあれば満員。泊まっているホテルのレストランではまだ夕食をとったことがなかったので、この日はホテルのレストランでいただくことにした。
 
 ホテルに戻った。看板の左側の明かりがついているところはフロント。レストランは看板の右手に位置する。いったん部屋に戻って荷物を置き、シャワーを浴びてからレストランに行った。
 
 ほどほどの入り。朝食のときにはいつも中庭に面した席に座っているが、このときも中庭のそばの席についた。
 
 ビンタン大。シャワーのあとなので、特に美味しく感じる。
 
 いただいたのはレンダン。牛肉を香辛料とココナツミルクで煮込んだ料理。スマトラ島のパダン料理でスマトラ島旅行のさいにいただこうと思っていて、結局いただく機会のなかった料理だ。メニューでレンダンを見つけて、即決して注文。

 唐辛子、しょうが、にんにくなどで煮込まれていて、かなり辛いが、ココナツミルクのためにまろやか感もある。肉はとても柔らかい。ご飯は円錐型に盛られているが、バリではこの盛り方が多いようだ。バナナの葉にのせるのもバリ島では多く見かけるが、見た目がいいのと、皿が洗いやすいからか。
 
 レンダンは美味しかった。またスマトラに行く機会があればスマトラのレンダンを食べてみたいものだ。この夜はウブド最後の夜だったが、特に変わったことなく、歩き疲れていたこともあって、早々と休んだ。