3日目 バンドゥンをジャランジャラン
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7時30分にチェックアウトし、ホテルの前のブルーバードタクシーでガンビル駅に向かった。10分ほどで到着。 駅構内のレストランで朝食にした。スープなしの肉そばとオレンジジュース。どちらも17000ルピア(約170円)。 |
食後はすぐに入場。改札口にいる職員はポリスに似た服装をして、白いヘルメットをかぶっている。この国の改札口の職員はこんな服装なのだろうか。 これから乗車する車両はエクゼクティブ(1等)なのだが、以前は、エクゼクティブ専用の待合室があったようなので探してみたが、すでに廃止されたようだ。 なお、エクゼクティブは車内食が出るのだが、バンドゥン行きは距離が短いので、食事なし。 |
仕方なく、高架のホームで待つ。暑い、暑い、、
いろいろな電車がやってきた。
右 そしてやってきたのが、屋根まで人が乗った電車。これはショックだった。こんなのが走っているとは、、 |
ガンビル駅は近郊電車は、急行を除いては通過。長距離客と短距離客を分離して、ガンビル駅は長距離専用の駅にしているのだ。 屋根まで人が乗った電車は目の前を通過した。 この駅に限らず、この国の鉄道は外国人観光客には利用しにくい。駅の改札口やホームには、時刻表もないし、次にやってくる列車の行先や時刻の表示板もないのだ。 |
しかも、列車にも、行先や列車名を書いたプレートや方向幕がないのだ。
あったのは左の画像のこのホームから出発する列車の列車名と行先を書いた看板だけ。 |
特に困るのは、遅れている場合だ。実際、定刻になってもホームに列車は入ってきなたった。
左は、8時30分の出発時刻を10分くらい過ぎて入ってきた列車。これだとは思ったが、ホームにも列車にも何も案内がありません。 (現地語での放送はあったけど) |
エクゼクティブの車両の入口のアテンダント。エクゼクティブに乗る場合は案内してもらえるので、少し安心。でも、ほかのクラスの場合は駅員に聞くなどしないとならない。 ジャカルタとバンドゥン(約140km)の移動は鉄道を利用した。 この両駅間には、2種類の特急が日に数本づつ走っている。 PARAHYANGANとARGO GEDEだ。 この日、乗ったのはPARAHYANGAN。 |
この2種の特急ですが、料金が違う。
PARAHYNGANが50000ルピア(約500円)、ARGO GEDEが55000ルピア(約550円)。 違う理由は、ARGO
GEDEのほうが車両が新しいから。(日本のレベルではどちらも古い)たとえば、トイレはPARAHYANGANは、垂れ流し式、ARGO
GEDEは、タンク式。 |
車窓からは棚田や湖も見えて、飽きることがない。バスじゃなく、列車にしてよかった。 ただ、途中で工事をしているところがあり、その影響があって30分ほど多くかかった。出発時に30分遅れだったので、11時41分到着が12時40分ごろになった。 そして、バンドゥンに到着。
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この国の鉄道にはびっくりさせられるものがまだあった。
駅で駅舎とホームの移動をしたり、ホーム間の移動をするとき平面で移動するのだ。跨線橋も地下通路もない。 バンドゥン駅はまだ本数がそう多くないが、ジャカルタの近郊区間のバンバン電車が走っているところも、これ。 確かに楽ではあるし、車イスなどはこのほうがいいんだけど。駅での事故ってどうなのか気になる。 |
バンドゥン駅の駅舎。なんとなく昔の長野駅や奈良駅を連想させるような感じの駅舎だ。 この日のホテルは、駅から歩いて10分ほどのところにとってある。翌日、ジャカルタに戻る列車が早朝の場合とかを考えてのことだ。 泊ったのは、スイス・ベル・アリオン・ホテル。部屋もなかりゆったりしていてよかった。 |
部屋の窓から、駅がすぐそばに見える。すぐそばに見えても、駅に行くときは遠回りしなくちゃならず、10分ほどかかった。
少し部屋で休憩してから、街歩きに出発。 ウェリカムドリンクのサービスがあったので、それをいただいてから出発。 |
ホテルからタクシーに乗車したが、ホテルマンが車のナンバーと自分のルームナンバーを控えてくれて、一安心。 バンドゥンのタクシーは交渉制なのだが、値段交渉もホテルマンがやってくれた。 まず向かった先は、1955年にアジア・アフリカ会議(バンドゥン会議)が開かれた会議場。10分ほどで到着した。 |
上左 会議場の玄関。 上右 併設されている博物館。 右 博物館を入ると、アジア・アフリカ会議の実物大のジオラマがある。館内は撮影禁止だがこれだけはOK。 演説しているのはスカルノか。 まん中あたりに日本の国旗もある。この会議には日本も参加していた。参加国数は29カ国でアジア・アフリカとはいうものの、アジアが中心であった。 |
バンドゥン会議は、正式には第1回アジア・アフリカ会議で、1965年にアルジェで第2回が計画されていたが、これが流れて、結局1回だけしか開かれていない。 この会議とは別に1961年から非同盟諸国会議がおこなわれているが、別物である。 また、第2回というわけではないが、2005年にアジア・アフリカ会議50周年会議が開かれた。日本からは、小泉首相が出席した。 見学を終えると、猛烈なスコール。出口で30分ほど雨宿りをした。 |
まもなくやんだので、街歩き開始。 すぐ近くに、アジア・アフリカ会議に参加した各国代表が宿泊したというサボイ・ホマン・ホテルがあった。 アジア・アフリカ会議のときには、ここから200mほど離れた会議場まで、参加国の代表が歩いたという。また、2005年の50周年会議のときには、小泉首相を含む第1回会議の参加国の代表を先頭にして、50周年会議の参加国の代表が会議場まで歩いたということだ。 |
さらにその近くに、バンドゥンのゼロポイントがあった。
さきほどのスコールで川の水かさがかなり増えていた。もっと降れば洪水になりそうな感じであった。 |
すでに15時を回っていて、遅い昼食。
パダン料理の大衆食堂に入った。注文したのは、ソト・パダンとナシ。 |
スープの中には、春雨、牛肉の細かいブロック、芋(詳しくは不明)、ネギなどが入っていた。 量が少し少なめで、ほかに一皿とるのが普通なのだろうけど、"せんべい"をおかずにしてナシを食べた。 すでに時間が15時近くで、あまり食べると夕食が食べられなくなることもあった。 |
食堂の外観。FAJARというのが店名か。 |
マスジッ・ラヤ。この街、最大のモスク。
マスジッ・ラヤの玄関にて。 |
メインストリートであるアジア・アフリカ通り。
ショッピングセンター。ここで休憩。 |
ホテルに戻って、暗くなってから、まず駅に行って、翌日の切符を買い、そのあと夕食にしようと思った。 雨が降っていたのだが、駅に行く途中のところで道路に水があふれているところがあり、駅にたどりつくのに苦労した。しかも、せっかく駅に行ったのに、予約窓口はすでに閉まっていた。同じように、予約の切符を買うためにやってきて、駅員に抗議していた人もいた。まぁ、ジャカルタ行きは多いので、当日でもいいだろう。 |
夕食は、タプール・クウにて。いろいろな料理の中から指差しして選んで、皿にのせてもらう仕組み。 上左 イカン・ゴレン、"てんぷら風の何か"、ビーフン 上右 ナシ 右 暖かいデザート。生姜が入っていて、生姜湯の味。 満腹になって、雨の中ホテルに戻った。 |
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