鉄原と第2トンネル (2003年)

 今日は京元線で新炭里(シンタンリ)まで行き、バスツアーで鉄原(チョルウォン)・第2トンネルなどを回る予定だ。まずは、地下鉄1号線で議政府(ウィジョンプ)まで。その前に、鐘路3街(チョンノサンカ)の駅近くで、ブリ入りのチゲ(韓国名をメモるのを忘れました)を食べる。どこにブリが入っているのかと思っていたら、ブリの身がほぐしてあって、釜の底のほうに身がたまっていた。


 料理がでてくるのにも、食べるのにも時間がかかって、乗車できた電車は8時35分ごろの発車。果たして議政府を9時20分に出る京元線に間に合うか。時刻表で所要時間を、なんとか9時16分ごろに着くと判断。到着するまで気が気でなかった。

 予想通り9時16分に到着。ところが、橋上駅舎へ上がる階段は電車の最前方にあるので、最後方に近い車両に乗っていた自分は200mばかりホームを走る。でも、客が多く思い通りに走れない。走りながら左手を見ると、電車ホームより一段低くなったホームがあり列車が止まっている。きっとあれに乗ればよいのだ。階段を駆け上がり自動改札を出ると、切符売り場、幸い漢字表記があって、「京元線」と書かれた窓口で「シンタンリ」と叫んで切符を購入。今度は有人の改札から入り、階段を駆け下る。目星をつけていた列車の行き先表示板には漢字で「新炭里」。安心して列車に乗り込めた。


 車内は満員。立ち客もかなりいる。空席がないかと後ろの車両に歩き始めた途端に9時20分で発車。何とか乗り込むことができてホッとしたが、しばらくは立ったまま。乗降口のところに立っていると、外の景色が見にくく、車窓の印象は何も残っていない。経路の半分を乗ったあたりで空席がちらほらし始め、自分も座る。このあたりまでくると、何の変哲もない農村地帯であるが、たまに軍用車両が走っているところから軍事境界線に近づいていることを意識させられる。
 


 10時38分新炭里到着。1車両に10人程度の客にまで減ってはいたが、車両数が多く、全体では結構な数の客が降りた。客の多くは登山客のようである。下車後、まずは駅前にある「安保観光」の事務所でツアーの申し込みをする。パスポートの名前と番号が控えられる。値段は13,000W。


 ツアーの出発は12時でそれまで散歩と昼食。散歩といっても駅からほんの2,3分離れれば民家がなくなってしまうよいうな小集落なので、散歩はすぐに終わってしまう。昼食は、ウドン屋らしきものがあったが、営業しているのか定かじゃない感じで、駅前の何でも屋でパンと飲物を買って昼食。そのあと、駅構内で写真をとったりしたが、まだ1時間近い待ち時間がある。結局、ベンチに座って何かするわけでもなしに時間つぶしをした。

 12時前にマイクロバスに乗車。この日の客は12人で、自分以外はみな韓国人。それでも運転手兼ガイドからは、韓国語の説明ほど詳しくなさそうであるが、手短に日本語ででも説明をしてもらえた。

 新炭里を出てすぐに、京畿(キョンキ)道から江原(カンウォン)道に入る。


 最初に訪問したのは、白馬(ペンマ)高地と呼ばれる丘。ここは朝鮮戦争(韓国では韓国戦争、あるいは発生した月日をとって6・25と呼ばれる)の中でも、特に激しい戦闘が繰り広げられた場所で、1952年10月8日から18日にかけてこの丘の争奪戦がおこなわれた。10日間のうちに、24回、この丘の持ち主が入れ替わったという。そして、最終的には韓国側がこの丘を確保したということだ。

 激戦のために丘の高さが3m低くなったとか、韓国側1万5千、中国側3万(ここでの戦闘での北側の部隊は中国軍だったとのこと)の犠牲者があったとか、戦闘終了後、上空から丘を見たら白馬が横たわっているような姿に見えたので白馬高地と呼ばれるようになったとかの説明があった。
 


 ここでは、記念館、慰霊塔、北側を望む展望台を見学した。展望台からは、韓国側の最前線が見えるため写真撮影は禁止であった。また、北側に属する金日成(キムイルソン)峰などの山も見えた。
 


 続いて向かったのは、第2トンネル。 その途上、道路から少し離れたところを戦前は金剛山へ向かう金剛山鉄道が走っていて、ところどころで田んぼの中に盛り上がった線路跡が見られる。鉄橋の跡も見られ、橋脚だけが残っていたところ以外に、鉄橋がそのまま残っていたところもあった。

 途中で民間人統制線を越えるので検問所があった。また、道路わきに大きなコンクリートブロックが置いてあって、緊急時にはそのブロックを倒して敵の侵入を防ぐバリケードを設置できるようになっていた。第2トンネルに着くと、そこには多数の自家用車。気候も良いので、半ば観光地化しているようで、多数の客がやってきている。ただ、いつでも見学できるのではなく、時間が決まっていて、自分らのツアーと同じ時間帯に見学するようになっているようだ。
 


 第2トンネルの入口でヘルメットを着用し、傾斜のある連絡通路を歩いて下る。歩くためなのか、列車で下る第3トンネルに比べて傾斜はゆるやかだ。トンネルまで下ると、あとは少し身体をかがめて歩いて、歩いていけるところの終点である軍事境界線まで300mの地点まで行く。トンネル内の写真撮影は禁止である。ときどき、頭をぶつけてしまうのは第3トンネルと同じで、ヘルメットは安全のため必要だ。

 歩いていけるところの終点には北朝鮮がトンネルを掘ったときに使ったトロッコがおいてあった。第3トンネルの場合と違って、終点から見えるところに壁がなかった。また、看板に日本語・英語の説明がなく、韓国語だけであった。
 

 


 第2トンネルを出た後、入口の前にある展示館を見る。北朝鮮がトンネル内に置いていたものいなどが展示されている。土産物屋も同じ建物の中にあり、北朝鮮の酒や食品が販売されていた。
 


 続いて向かったのは、かつての月井里(ウォルジョンニ)駅付近にある展望台と再建された駅。展望台からは韓国側の最前線が見えるので写真撮影は禁止。展望台のすぐ北側に南方限界線(韓国側が軍備を置くことができる最前線。軍事境界線から2kmのところ。)があるのだが、その線を越えたところに元の;月井駅があった。それで、再建された駅舎は南方限界線の南側に造られた。また、朽ち果てた列車の車体も展示されている。

 


 この付近では鳥の集団を何度か見かけた。軍事境界線付近は人が出入りしていないので、自然がよく保存されていて、鳥や獣の棲家になっている。それに、冬にはシベリアなどから渡り鳥が移動してくるという。
 

渡り鳥と北朝鮮の山


 最後に向かったのは労働党の党舎。38度線は有名であるが、現在は朝鮮半島の中東部では38度よりも北側がかなり韓国になっていて、逆に西部では38度よりも南側でも北朝鮮になっている。元来、南北の境界線は北緯38度だったが、朝鮮戦争後は38度付近に新たに軍事境界線がつくられたのだ。だからこの一帯は、1945年から52年にかけて北朝鮮に属していたのだ。

 

鉄原駅跡


 労働党の党舎に向かう途中、かつての鉄原(チョルウォン)市街地を通る。だが、説明がなければただの畑や荒地、そして地雷注意の看板のある林と思うだけである。よく見ると建物の土台が残っているところもあった。鉄原駅は80人の駅員がいた主要駅だったとのことだが、ホームの跡らしきものがかすかに車窓から見えた。工場の跡だとか、学校の跡だとかも説明があったが、想像するしかない。そんな中で、建物の骨組みがよく残っているのが、労働党の党舎や農産物の検査所なのである。

 


 労働党の党舎は、この地域が北側に属していた数年間、北朝鮮側の統治の拠点になったところである。この建物には鉄筋が使われていなくて、コンクリートの中心には木が使われているとのことだ。北朝鮮時代には、北に反対する考えを持った人たちがここで拷問を受け、虐殺が行われたという。この建物の裏側には死んだ人を焼く焼却炉があったとのこと。

 このあと新炭里駅に引き返し、ツアーが終了。16時の列車に乗ることができた。帰りの列車では、よく眠り車窓はほとんど見ていない。17時20分ごろ議政府着。すぐに地下鉄1号線に乗り換えてソウルに戻った。この日の夕食は、仁寺洞(インサドン)の路地裏にある店で、プルコギ。2人前食べる。

 そのあと街をブラブラし、さらに冷麺(ネンミョン)も食べた。いったい、どれだけ食べれば気が済むのやら。

 

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