4  サ ン ダ カ ン

 

 サンダカンで迎えた朝。サンダカンのローカルフードCOTO、読み方は「チョト」。

 サンダカンでは、COTOを食べようと行く前から決めていた。サンダカンでしか食べられないから。ホテルの朝食をパスして、7時前に外出。

 向かった店は、ホテルのすぐそばの友興茶室。COTOは、牛の内臓を煮込んだスープで食べる米粉。牛の内臓は煮込まれているだけでなく、具として麺の上にたくさんのっている。  

 

   テーブルの上にゆで卵が置かれていて、卵をトッピングしたい場合は、勝手にむいて麺に放り込んで食べるようになっていた。同時に飲み物として、アイスミルクティーも注文。でも、でてきたのはレモンティー、まぁいいか。

 この店の支払いの仕方がまた変わっている。食事代と飲み物代を別の店員に払うのだ。最初、全額を払うつもりでお金を渡したら、どうもお釣りが多いなぁ、と思っていたら、すぐ別の店員がきて、そのお金を持っていって、またお釣りを返すっていうやり方だ。

 COTOだけでは、少々、お腹がすきそうだ。でも、もうホテルに戻って、ホテルの朝食をとる気にはならなかった。

 で、COTOの店の斜め前に、ロティの店があるのでいってみた。ロティは、チャパティと同じで、どちらかというと南インドでの呼び方らしい。インドのパンなのだが、パンとの違いは発酵させないところ。

 だから、店頭で小麦粉をこねて、鉄板で焼いていた。これにカレーをつけて食べる。

 右の画像で、左端に写っているおじさんがロティを焼いている。客はインド人らしい人も多いが、そうでない人のほうが多い。

 飲み物は、アイスココアを注文。熱いココアに氷を入れただけ。しまった、氷はやめておくべきだったと後悔した。なるべくなら、こういう店で氷の入ったものは避けたい。

 このあと、ホテルに戻り、ホテルの前に止まっていたタクシーと交渉。セピロックと戦争記念公園回って100RM(約3500円)と話をつけた。出発は1時間後の8時30分とした。  

 1時間の間に何をするのか、、サンダカンホテルのビジネスセンターでネットをするためだ。ネットカフェが見当たらず、おまけにホテル内でも夜間は営業しておらず、朝にホテルでってことになったのだ。

 30分ほど遊んで、部屋に戻って荷造り。そしてすぐにチェックアウト。ただし、荷物はホテルで預かってもらった。

 8時30分にタクシーに乗車。45分ほどでセピロックに到着。ここで、オランウータンの餌づけを見る。左の画像の木道を進んでいく。

 餌づけは、10時からなのだが、すでにとても多くの人が集まっている。オランウータンもすでに何匹かでてきている。

 

 

 

 

  

ここには、親を亡くしたり、怪我をしたオランウータンが保護されていて、子供のオランウータンが多いが、大人もいる。
 

 10時になると、バナナやミルクを持った人がでてきて、餌づけをおこなった。右の画像で、左に写っているオランウータンは、一瞬のうちにバナナを1房奪っていった。  

 

  

 
  係りの人がいなくなると、台の下にいた子供たちが台の上にあがってきた。
 

  ここの正式名は、セピロック・オランウータン・リハビリテーションセンター。リハビリのおわった子らは自然に返される。右上の子の足を見ると番号が書いてある。

 20分ほどでオランウータンは去ってしまい、展示室やフィルムを見た。もっとも、フィルムは寝てしまったのだが、、冷房とソファー風の椅子が心地よすぎて、、

 右はトイレ。

 次に向かったのは、戦争記念公園。サンダカン空港の近くにあり、かつて、日本軍の戦争捕虜収容所があったところだ。

 

 

  

 かつて日本軍が使っていた機械の一部が残っている。
 
 展示館では、捕虜収容所のことが詳しく説明されていて、外部と通じて情報を流し死刑になったという捕虜の話や、戦争末期にサンダカンからラナウに2400人の捕虜が移動させられて、生き延びたのは6人だったという話が書いてある。

 死の行進といわれるラナウへの移動は、サンダカンにいた日本人もおこなっており、多数の犠牲者を出している。ここの展示は間違いではないにしても、捕虜の話だけが扱われているので、ここを見た人は捕虜だけが死の行進をさせられたと誤解しやすいと思う。

 この展示館を作ったのはオーストラリア政府だという説明もあった。捕虜はオーストラリア人が中心だったので、それはわかるにしても、オーストラリアの立場からの展示になっていることが気がかりであった。

 かつての収容所の全体が公園になっているのではなく、一部分が公園になっていた。かつてオーストラリア兵の収容されていた棟があった一帯は、新しいマンション風の建物が並んでいた。

 さて、昼食タイムになった。昼食は、サンダカンの中心まで戻らず、4マイルとよばれている郊外でとることにした。(サンダカンの郊外では、中心から何マイルという言い表し方で場所を示すことが多いようだ。)

 タクシーとは4マイルで別れた。香香板麺という店に行った。ドライバーが店を知っていたので、店まで連れて行ってもらえた。

  注文したのは、板麺。餃子の皮を細かく切ったようなもの。細くないがこれも麺の一種なのか。飲み物はアイスミルクティー。

 4マイルは、サンダカン郊外にある中心地のようなものだが、建物が画一的なものばかりで、歩いていても面白くはない。 

  魚市場もあったが、昼間は無人。このエリアを散策するのはやめて、タクシーに乗車。
 

 向かった先は、アグネスキース・ハウス。前日、日本人墓地に行ったときに通ったが、すでに閉まっていたので、あらためて訪問。 

 

  

 第2次大戦の前と後にここに住んだ米国人の家。冷蔵庫は実際に使ったものらしい。
 

 だが、ここへやってきたのは、家を見ることではなかった。同じ敷地にあるイングリッシュ・ティーハウスで休憩するためだ。

  

 
  海の見える屋外喫茶で、心地よいひとときをすごせた。飲み物はマンゴーラッシー。
 

 歩いてホテル近くまで戻ったが、あと1箇所立ち寄った。サンダカン遺産博物館。右の建物全体じゃなく、右側の2階の一部。

  

  1945年のサンダカン。連合軍の空襲で廃墟になったさまがわかる。
 

  英国統治時代の切手。テングザルが描かれている。 

 

 

 

 
 

  博物館のそばで見た、マンションの広告。7万〜27万RM(約250万〜950万円)程度。

 マレー語では、Taman・・・・、中国語では、・・・園 という名前がつけられている。

 

 ホテルに戻り、荷物を受け取り、タクシーで空港へ。いよいよサンダカンともお別れ。

 途中、州立モスクを撮影。 

 

  

 さらに、水上集落を撮影。
 

  サンダカン空港着。もともと、大戦中に日本軍が捕虜を使って作ったのだが、そんなことを知る人は少ないだろう。 

 

  

 マレーシア航空利用で、KKまで45分。
 

 コタキナバルに戻ってきた。3日ぶりなのだが、なぜか懐かしい。

 今度は、サバ州内の便なので、国内線の出口から出場する。

 それにしても、空港内には、国際線で入国した客、出国手続きをした客も混じっていてが混じっていて、これでいいのかとまた思った。

 空港内の旅行社で、翌々日のサピ島へのツアーを申しこみ、チケットタクシーでホテルへ向かう。

 この日の泊まりは、ビバリーホテル。

 

 

 

 

  

  KK市内だが南のはずれに位置する。
 
 すでに19時を回り、休憩もそこそこに夕食へ。フィシュヘッドカレーという料理名が店名でもある店へ。

 バナナの葉の上にご飯やおかずが置かれる。魚のフライやコロッケを別注文。付け合わせなどはあまり辛くなかった。注文の仕方がわからず、フィッシュヘッドのカレーは食べ損ねてしまった。次回訪問時に食べるぞぉ。

 このあと、近くのショッピングセンター内のネットカフェで遊んでから、ホテルに戻る。

 

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