3 日 目 バ ト ゥ ・ パ ハ
バトゥ・パハに向かう |
上左 ホテルの朝食は前日とは違うメニューになっていた。前日より食欲をそそられる感じだった。この日はグレープジュースがでていたが、やはり薄い。 上右 粥とフルーツ。 左 いったん部屋に戻り、この日に必要な荷物だけもって出発する。フロントでタクシーを頼んだ。10分ほどで車が到着した。ホテルから行先も伝えられていて、マラッカセントラル? 15RM、と言われる。ホテルで聞いた額と同じだから市内からセントラルバスターミナルまでは一種の定額制のようになっているのかもしれない。3、4kmほどの距離だからちょっと割高に思うが、かといって歩くのは大変だし、路線バスは皆目どう乗ればいいかわからないのでやむを得ない。10分ほどで到着。外観も大きいが、中に入って、巨大なターミナルであることがわかった。11年前にきたときの古いターミナルとは大違いだ。 |
タクシーを下りて切符売場までたどりつき、さらにバトゥ・パハ行きを運行しているオーキッド・マレーシア社のブースを見つけるまで5分ほどかかった。 そのとき9時10分だったっが、9時発の切符が売られ、ブース横に立っていたドライバーがバスまで案内してくれた。料金は9RM(約270円)。 |
自分とドライバーが乗車して、まもなくバスは出発。できるだけ多くの客を乗せようと出発を遅らせていたのだろう。この日に限っては、遅らせていたおかげで早いバスに乗れてよかった。マラッカに戻ってから、バトゥ・パハ行きの時刻表をみると、次のバスは10時30分だったので助かった。 切符で会社名は、ORKID MALAYSIA EKPRESとなっている。 マレーシアでは英語などの外来語を表記するときの書き方が、子供が間違えるような英語に似ていて面白い。Orchid は Orkid、Express はEkpres。 あとマレーシアでは中国語の地名もよく使われるのだが、マラッカは馬六甲。前回の訪問時に知ったが、笑えた。 |
上左 バスはクラン行きで、途中、ムアとバトゥ・パハに止まる。 上右 2座席を1人で使う程度の混雑度だった。自分が乗ったときには最後尾だけが隣が空いた状態で座れたので、最後尾に座った。しかし、ひどい揺れがあり、ゆれるたびに少し飛び上がる状態だった。 左 風景は油やしの森か田んぼでであった。 |
バトゥ・パハのバスターミナルには11時15分に到着。ちょうど2時間かかった。 このバスターミナルは道路を利用したもので、1ブロックの間の道路にアーケードをつけ、ターミナルにしていた。前にバスがあれば、動きにくい構造だ。 14時15分か15時30分のバスでマラッカに戻ることにして、街歩きに出発した。 |
バトゥ・パハの旧日本人倶楽部 |
1階にバスの切符売場や待合所が同居しているショッピングセンターを3階まで上がり、手洗いを使用。0.3RM(約9円)。 上がりのエスカレータは動いていたが、下りは停止中だった。東南アジアではよくあることだが、エスカレータの階段を歩くのは結構歩きにくく、疲れるものだ。 |
バトゥ・パハは、昭和の初めに世界各地を放浪した詩人、金子光晴が滞在したことで知られる。彼は昭和3〜7年にマレー半島、ジャワ島、スマトラ島を旅して、「マレー蘭印紀行」にまとめている。自分は読んだことはないのだが、今回、彼の好んだバトゥ・パハを訪問したので、読んでみようかなと思っている。 ところで、街のあちこちにおそらく金子が滞在したころと同じ建物があちこちに残っている。 |
バトゥ・パハの通りはかなり幅が広い。その割りに車は多くなく、歩
く人も少ない。 観光地ではないため、無理に修復して残そうというのではなく、古い建物が普通に残っている。街が廃れてしまったので、昔のまま放置されているといったほうがいいかもしれない。 |
バトゥ・パハを訪問した目的は金子光晴が滞在した旧日本人倶楽部の建物を見ることだ。 堂々とした造りで屋上には塔がある。ここに80年前、金子をはじめ日本人がたくさん集っていたことを想像してみた。そのころは近くの鉱山でとれる鉄鉱石などの積出港として栄えていたらしい。道が広いのもそのころの名残か。 |
旧日本人倶楽部の端まで歩いて撮影。 1階は店舗が入居していたが、2階、3階は使われていない部屋が多そうな雰囲気であった。中には入れず、外から納得行くまでしばらく見続けた。 下左 1階の亭子脚の部分を歩いた。 下右 旧日本人倶楽部の向かいには金子が朝食をとりに毎日通った岩泉茶室があったという。今は別の建物がたっている。 |
旧日本人倶楽部の西側、つまり川の画には、税関があるのだが、税関の門のところが旧日本人倶楽部を真正面から撮影するのに都合よい。 その税関の門から中を見るとバトゥ・パハ川が流れる。なんとも静かな流れだが、水はかなり濁っている。昔は税関もにぎやかだったのだろうが、今はほとんど貿易品もないのだろう。人の気配もない。 |
旧日本人倶楽部のすぐ東側には市場があった。ここも人出が少なかった。もっとも正午ごろだったからなのかもしれないが。 |
上左 旧日本人倶楽部のすぐ近くにフードコートがあるので、そこで昼食をとろうと行ってみたが、昼間は営業していなかった。 上右 フードコートは川べりにあった。のんびりとした川をしばし眺めていた。 左 形といい、色といい、なかなか魅かれた建物が目に入り、1階が食堂になっていたので、そこで昼食をとろうと思った。 |
道路をはさんだところにも、1階は食堂である建物があった。この食堂では、雲呑麺を最近はじめたばかりのようで、ぜひ雲呑麺を食べてみたくなった。 |
雲呑麺をつくる調理場だが、一見、屋台のように見える。怡保とあるのはイポーのこと。でもどんな雲呑麺なんだろうか。 下左 食堂の中。 下右 飲物はコカコーラにした。ジョッキに氷を入れて運ばれてきたが、コーラが冷えていないわけでなく、きちんと冷えていた。 |
雲呑スープが別につくドライの雲呑麺。かなりタレがかかっていて、皿の底にはタレがたまっている。切られた焼豚がかなりのっかっていた。ただ、怡保雲呑麺とはどんな特徴があるのかよくわからなかった。 |
昼食後、ぶらぶら当てもなくバトゥ・パハを散歩。古い建物が多く残されているが、そのほとんどはショップハウスに似た構造の2階建て。なかにはこの写真のように平屋の建物もあった。住人がいなくなってかなりたつのか、入口まで草生していた。 |
マラッカへ戻り市内バス乗車 |
バスターミナルに戻ったのは14時15分のマラッカ行きバスの発車30分前。特にすることもなくなり、2時間半で街歩きを終えてしまった。 写真はバスの切符売場で手前はオーキッド・マレーシア社のブース。切符を買って、あとはバスの待合所で座って待った。 |
切符の右の半券は乗車時にとられる。 バトゥ・パハはBPとスタンプにある。KLやJBと同じようなものだ。 |
帰りも15分遅れで発車。席は指定のはずだが、席のどこに番号がかいてあるのかわからず、適当に座った。行きの切符を見てみたら、こちらも席番号が書いてあったのだが、行きに乗車したときには気づきもしなかった。 バスは途中、ムアで停車してマラッカへ。渋滞があって、2時間半かかり、マラッカに戻ったのは17時だった。 すぐに翌日のKLIA行きのバスの切符を買っておいた。 |
セントラルバスターミナルは、マラッカ市内を走る路線バスのターミナルにもなっている。それで、市内中心部に戻るには路線バスを使ってみることにした。 17番のバスがスタダイスの前を通ることだけは事前にネットで調べてわかっているのだが、どの乗場から発車かまではわからなかったので、17番のバスがこないか、いくつかの乗場を掛け持ちで注視して待った。 |
20分ほど待って、17番のバスがきた。オンボロバスを予想していたのだが、きれいなバスで冷房も入っていた。路線バスも世界遺産になって、かわったのだろう。 乗車にはとても時間がかかり、全員が乗り終わるには10分くらいかかった。理由は乗車時にドライバーに行先を告げて、切符を買うからだ。自分はスタダイスと言ったら1.3RMということだった。ここで細かいお金を探したり、ドライバーがおつりを渡すのに時間がかかる。 |
本数が少ないためか、大混雑。新しいバスだが座席は少なく、最後まで立つ。 マラッカの路線バスは観光客が利用するにはハードルが高すぎる。セントラルバスターミナルでさえ、路線図も時刻表もなかったのだ。途中の各バス停にも、路線図や時刻表はないのだが、極めつけはバス停を表すポールなどもないのだ。だからどこがバス停なのかもわからない。市内からバスターミナルに行く場合は、どこで待てばバスに乗れるかわからない。 |
市内の中心部では遠回りをする区間もあって、スタダイスまで20分以上かかった。 下車するとバス停のポールらしきものがあったのだが、路線バスのではなく、観光地をめぐるツアーバスのものだった。 下車後、夕陽を見ようとセント・ポール教会跡へ向かった。 |
屋台風レストラン |
スタダイス前でバスを下車して、スタダイス裏手にあるセント・ポール教会跡に行ってみた。残念ながら、雲が多く夕陽は望めそうになかった。でも雲の切れ目も結構あるので、一縷の望みはあった。 マラッカの街は海側にどんどん埋め立てて、旧市街地から海岸は遠くなっているが、丘の上からはマラッカ海峡を行きかう船が見えた。かつては、海峡の要衝として栄えたのだが、今は貿易港としては小さな港なのだろう。 |
日の入りまではまだ1時間ほどあったので、いったん丘を下りて、未訪問だったオランダ人墓地に行ってみた。かなり大きな墓があり、きれいに整備もされていた。17世紀のオランダ統治時代の墓であった。 時間があったので、まだ歩いたことがない道を通ってスタダイスまで戻ったりして、時間つぶしをした。 |
再び、丘の上に戻り、夕陽を待ったが、水平線近くには雲がぎっしりとあって、夕陽を眺めるのは無理だと判断した。 雲の切れ目にかすかに夕陽の一部が見えたので、これでがまんする。日没までまだ少しの時間があったのだが、丘を下りた。 |
左 丘の下の公園にはマレー鉄道の車両が置かれていた。 上 日本の汽車製造会社の1965年製だった。 |
夕食はチャイナタウンでとることにした。マラッカ川を渡りジョンカー通りに入ったころに日没。 どこで食べるか迷いながら歩いていたら、屋台街があったので、門を入ってみた。 |
十軒ほどの屋台がならび、はじめはフードコートのような屋台街だと思っていた。 メニューはひとつにまとまっていて、ウエイトレスに注文すれば、料理ごとに分かれている屋台風の調理場で料理が作られるようになっていた。お金もまとめて払うようになっていて、屋外で営業する屋台風のレストランであることがわかった。ただ、それぞれの屋台に行って、直接に注文して、そこでお金を払うこともできるようだった。 料理とビールを注文。ビールはメニューでは、タイガー、アンカー、カールスバーグの3種だったが、この日はタイガーしかないとのことで、タイガーを注文した。 |
料理は、エビのグリル。大きなエビを期待していたのだがそうでななく、でも小さくもなかった。よく焼けていて、殻も香ばしくて美味しい。 辛さはマレーシアの料理にしてはかなり辛い。付けあわせのキュウリやオクラ、タマネギで辛さを調節し、ビールで辛さをとらねばならなかった。 |
さらにニョニャラクサを注文。ラクサは今までにも食べたことがあるのだが、特に、ココナッツミルクを多く使っている点が特徴。具は店によって違うのだろうが、日本の揚げやカマボコのようなものがたくさん入っていて、色合いもあわせて、日本のカレーラーメンを連想させるものであった。 |
夕食のあとは、腹ごなしもかねてジョンカー通りの屋台街を散策。かなりの人出であった。試してみたい食べ物もあったが、お腹いっぱいのため、買い食いはしなかった。 |
ジョンカー通りの端までやってくると、前日の昼間に見たステージでショーをやっていた。歌をうたっていて、聴衆は椅子にすわっていて本格的にやっている感じだ。 ホテルに戻り、マラッカ3泊目の最後の夜をすごした。 |