10 ヤ ン ゴ ン 1
朝起きると、体調はほぼ回復していた。一体、前日、前々日は何だったのだろうか。6時30分に朝食。2日間あまり食べていなかったせいか、単なるトーストであったが、とても美味しく感じた。すでに車がやってきて いて、朝食後すぐに朝もやが出ている中をヘーホー空港へ。7時45分、空港着。 結局、インレー湖に関しては、不完全消化のまま現地を出発することになった。サガー遺跡どころかインレー湖自体、十分には回れなかった。もともと予定に入れていなかった、ピンダヤ洞窟やサガー遺跡なども含めて、ここはもう一度、訪問しよう。行きたいところを全部回るには、4泊必要だろう。 ヘイホー空港は国内でもイミグレーションを通過しなければならず、パスポートのチェックを受け る。例によって、飛行機は遅れ気味。1時間ほど遅れて、10時40分発。 そして、自由席であった。ミャンマーの主要航空路は、ヤンゴン、バガン、マンダレー、ヘーホー、ヤンゴンを回るもので、その最終区間なので、自由席になっているのかもしれない。後部からタラップを上って乗るタイプの飛行機だったので、降りるのに便利な一番後ろに座った。 簡単な機内食が出る。ちょうど昼食時であったので、昼食代わりにする。 12時にヤンゴン着。 荷物を機内持ち込みにしていたので、自分には関係なかったが、ミャンマーでは国内線の荷物は、荷車で運ばれてきて、降ろされたものを各自で持っていくというものである。そのさい荷物の半券の照合が行われる。 自分は、飛行機を降りて5分後には、タクシーの中にいた。だが、途中の道路が渋滞していて、ホテルに着いたのは13時。 ミャンマー入国のときに泊まったのと同じビューティーランドUホテル。入国時に泊まったときは、夜になってから到着し、夜が明けないうちに空港に向かったので、ホテルの周辺の様子を観察できたのは、この日が最初であった。 ヤンゴンの中心部であるのだが、この街には高層ビルが少ない。商業地区と住宅地区が混じったような感じの路地にホテルはあった。 部屋は、最初の日に泊まったのと同じ部屋をあてがわれた。窓がなく、電灯も薄く暗いが、苦痛ではない。予約していたので準備してくれていたのだろうか、エアコンがすでに入っていて、心地よかったので、1時間くらい休んだ。 14時にホテルを出発し、大通りに出て車を拾った。英語が通じず、ガイドブックのミャンマー文字を見せる。まず向かったのは、ボーヂョーアウンサン博物館。ボーヂョーアウンサン将軍が、1945年から暗殺された47年まで住んだ家がそのまま保存されている。それほど大きな家ではない。 また、現在、民主化運動の中心人物である、アウンサンスーチーさんは、アウンサン将軍の長女で1945年に出生後、幼少時代をこの家で過ごした。
アウンサン邸の玄関。内部は撮影禁止であった。 時間をかけて見学したのは、アウンサンスーチーさんのいた子供部屋。アウンサン将軍の暗殺されたのは彼女が2歳のときである。彼女のベッドは柵がとりつけられて、ベッドから落ちないようにされていた。また、彼女のベッド、ダイニングにあった彼女のイスには、アウンサンスーチーと表示されていた。 公的な施設で、彼女の名前が書かれているのは、この博物館くらいではないだろうか。 ボーヂョーアウンサン博物館の次に向かったのは、殉難者廟(アウンサン廟)。アウンサン将軍の墓である。 ただし、殉難者廟(アウンサン廟)は、7月19日に行われる式典などのほかは閉鎖されていて、写真を撮ることも禁止である。兵隊か警官かわからないが、銃を持った人間が多く、写真を撮ることはもちろんだが、入口に近づいたりすれば、何か言われかねないような雰囲気だったので、横目でちらちら見ながら、しかしゆっくりと歩いていった。 殉難者廟(アウンサン廟)は、以前は自由に出入できていたようなのだが、1983年10月に、北朝鮮工作員によって 廟の天井が爆破が行われて以降、7月19日など特別な日以外は立ち入りできなくなった。爆破は、ミャンマー訪問にやってきた韓国の全斗煥大統領をねらったもので、大統領は難を逃れたが、韓国の随行員とミャンマー人21人が死亡した。 事件後、数日以内に北朝鮮工作員が2人逮捕、1人射殺された。この事件当時のビルマは、 南北両国と国交を持っていたものの、北朝鮮寄りの国であったが、事件後は、北朝鮮の承認を取り消した。 現在、東南アジアで唯一、北朝鮮を承認していない国である。(注:本稿作成後の2007年にミャンマーと北朝鮮の国交が24年ぶりに回復した。) しかし、現在、閉鎖されているのは、アウンサン将軍の人気が、アウンサンスーチーさんへの人気に結びつくことを警戒してであろう。かといって、軍にとっても、アウンサン将軍は、建国の父、軍の創始者であるので大切に扱わなければならないのがジレンマになっていると思われる。(注:本稿作成後の2013年にアウンサン廟は開放されるようになり、自分も2度目のヤンゴン訪問にとなった2016年末に訪問した。撮影も可能で、別稿のヤンゴン旅行記に写真を掲載している。) 16時30分ごろ、ヤンゴン最大のみどころであるシュエダゴォンパゴダに到着。入口はいくつかるが、大通りから入ったところにあったりして、正門にあたる南側から入場。 ミャンマー人は無料だが、外国人は5ドル必要だ。5ドル払うと、黄色のシールを渡されるので、それを良く見えるところにはっておかなければならない。 正門から入り、屋根つきの長い参道を歩く。両側には、お供え品や土産を売る店が並んでいる。パゴダが丘の上にあるため、参道の途中には、階段がたくさんある。 エスカレータでも上れるそうで、はだしでエスカレータに乗るのも面白そうだなと思っていたが、エスカレータの位置がよくわからず、結局、上まで歩いて上った。 参道を上りきったところ。ここは、ミャンマーで最大のパゴダで、一番、人気があるパゴダでもある。とても多くの人々でにぎわっていた。 人が集まっている。その前では、お祈りをする人たちも多い。何だろうか。 これは、曜日ごとの方角に向いておかれている仏像に水をかけて祈願をしているのである。曜日は、水曜日が午前と午後にわかれているので、八曜日と呼ばれていて、中心の大パゴダの回りの8つの方角に仏像がある。 仏像の下には、その曜日の動物の像もある。 自分は土曜日生まれなので、土曜日の方角である南西の方角にあった仏像に水をかけてお祈りをした。自分の年齢の数だけ水をかけると書いてある説明も見たので、年齢の数だけ水をかけてみた。
中心の大パゴダ。その周囲には、無数の小パゴダがある。 1920年、学生の独立運動が初めて行われたが、そのとき、学生たちがこの場所で会議を行っていたことを記念するものである。 お坊さん密度はとても高い。 清掃ボランティア。こうしたグループが5グループ、連続して清掃をしていった。 祈りの場所。お祈りしている人たちが特に多い場所である。 マハーボディー寺院。インドのブッダガヤの同じ名の寺院を模している。 兄のパゴダ。中心のパゴダを小さくしたようなものだ。このころ日没。 日没後の大パゴダ。照明に照らされて、光り輝いている。 日没後は、ますます人出が多くなってきた。 祈る人たちがとてもたくさん。 ろうそくに火をつける人たち。シュエダゴォンパゴダには3時間ほどいた。いろいろなところがみられて、退屈することもなく、楽しくすごせた。 明るい間 は近所の散策客といった感じの人たちや、地方からヤンゴンにやってきたおのぼりさんといった感じの人たちが楽しんでいる仏教テーマパークというイメージが強かった。 暗くなってからは、真剣な祈りの雰囲気が 強くなったように思う。とはいえ、夜もたくさんの人出で賑わっていた。 この日の夕食は日本食レストランへ。 病み上がりであることを考え、脂っこいミャンマーフードは避けたのだ。そして、ぐっと一杯、タイガービール。 お正月料理が出されていて、お雑煮を注文。 ミャンマーでお雑煮を食べるとは思ってもみなかった。もともと、海外旅行に行って日本料理を食べることに対して否定的な考えを持っていたのだが、メキシコで体調を崩したときに日本料理店に行ったときに、この考えが大きく変わった。外国で食べる日本料理も、たまであれば、なかなかいいものだと思うようになった。 ざるそばも美味しかった。 かつて麻薬類をつくっていた農民に、かわりの作物としてそばを作らせているそうだ。 このあと、ホテルに戻り、朝の早い明日に備えた。 とてもたくさん歩いたので、すぐに夢の中となった。
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