4日目 大 晦 日 の ヤ ン ゴ ン
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変わりものパゴダ2つ |
ヤンゴンの旅、動きまわれるのは3日間。この日はその3日目で、大晦日。朝食は、特別にミャンマー風の麺を頼んである。前日はモヒンガーだったが、この日はオンノカウスエ。 オンノカウスエは、ココナツミルクを大量に入れたスープで一見、トンコツラーメンのスープのように見える。味はとてもまろやかだが、香辛料がきいていて、甘い中に辛さがある。麺は小麦の細麺。ミャンマーの麺はほとんど米麺なので、小麦麺は少数派だ。具は何かの天ぷらのようなもの。 |
洋食のトースとと卵料理にかえてのオンノカウスエで、前日のモヒンガーの場合と同じ。 モヒンガーとオンノカウスエがミャンマーを代表する麺だが、どちらがよいかと言われたら、自分の場合は、モヒンガーかな。 |
朝食後すぐに街歩きスタート。はじめにボージョー・アウンサンマーケットへ。前々日にきたときには、すでに店じまいしたあとだったので、改めて訪問した。 衣類と雑貨の店がほとんどで宝石店もある。奥のほうの一角には食堂のエリアもあるが、生鮮食料品は扱っていない。 |
建物の中のほうの店。生鮮食料品がないためか、アジアの市場に特有の臭いがなく、床がぬれているということもない。でも刺激に欠けるのが難点だ。 |
マーケットを出て、鉄道の上を通る橋までやってきた。下には駅があって、中央駅の西となりの駅だ。 ちょうど列車が停車していた。環状線の列車だろう。線路を歩いて乗り降りする人がたくさんいる。客車の多くは、隣の車両に行けないのだが、最後尾から見ると、そのこともわかる。 |
路線バスでシュエダゴンパゴダの前まで乗車。路線バスは系統番号がミャンマー数字で書いてあって、乗るにはハードルが高すぎるのだが、乗車地点からシュエダゴンパゴダまでは一直線なので、乗ってみた。 ミニバスで何とか座ることができた。運賃は200チャット(約17円)。シュエダゴンパゴダまで1.5kmほどなのだが、渋滞があって20分くらいかかった。 |
シュエダゴン・パゴダの南門の向かいには、名前のよくわからないパゴダがあるのだが、その境内がにぎわっていた。移動式の遊園地になっていた。 下左 仏塔に飾りをつけて、クリスマスツリーにしていた。仏教への信仰のあついミャンマーで、こういうことが許されているのが驚き。 下右 このパゴダの塔だが、離れて眺めると、1階、2階、3階の屋根の下の黒い丸窓が人の目のように見えるのが面白い。 |
続いて、シュエダゴン・パゴダの南東にあるマハーウィザラ・パゴダへ。ちょっとした丘の上にあり、炎天下のため上がるのが大変だ。 |
このパゴダの中に入ってびっくり。礼拝堂の壁に樹木が描かれているのだ。森の中で礼拝しているような錯覚をおこす。 |
天井画は幻想的なものだ。外は暑いので、しばらく休憩。 |
アウンサン廟行って昼食 |
2つの興味深いパゴダを見た後は、カンドージー湖をながめて、そのあとモヒンガーの有名店で昼食をとって、2日前には閉まっていたアウンサン廟に向かう予定だ。 カンドージー湖へは1km強なので歩いたが、日蔭がほとんどない歩道が続いたので閉口した。 突然、エスカレータを備えた屋根付き歩道橋があってびっくりした。しかもエスカレータに近づくと動いたのでさらにびっくり。 |
カンドージー湖。水草が浮かんでいて、3日前に行ったインヤー湖ほどきれいではない。カフェがあるので、休もうかとも思ったのだが、すぐあとに昼食のつもりだったのでパス。 |
再びシュエダゴン・パゴダの近くへ。今度は東門の近くだ。商店街になっている。花屋が何軒も続く一角があった。 この付近にモヒンガーの有名店があるとガイドブックに書かれていたのでやってきたのだ。それらしき付近を数往復して探したのだが、結局わからずじまい。モヒンガーはあきらめ、アウンサン廟を見た後、2日前に行ったミャンマー料理店に再び行こう。 下左 シュエダゴンの東門。この日はシュエダゴンには参拝しないのだが、アウンサン廟に行くためには、参道の階段を途中まで上る必要がある。裸足になって屋根付きの階段を少し上がった。 下右 参道の途中に幹線道路が交差している。写真は南門の方向を撮影している。南門の前から緩い上りになっていて、東門よりは高い位置を道路が通っているのだ。このすぐ近くに、シュエダゴンの丘の上に上がるためのエレベーターがあった。 |
上左 幹線道路を進むと、シュエダゴンの北側にアウンサン廟がある。入口には人は見えず2日前に続きまたも入れないのかと思ったが、中に入ることができた。 上右 中に入ると、右手に軍の詰所のようなのがあり、そこで名前とパスポート(ミャンマー人はID)の番号を書かされた。外国人は入場料がいるようで、お金を集めにやってきた掃除人に3000チャットを払うと、胸にシールを貼られた。MARTYRは殉教者の意味で、アウンサン以外にも独立に尽くした人物が葬られている。だから正確には「殉教者廟」なのだが、一般的には「アウンサン廟」とよんでいるようだ。 左 墓まで200mほどの間にパネル展示がおこなわれている。葬られている人物の功績の紹介だ。ほとんどミャンマー語だけなのだが、雰囲気は伝わってきて、何を言いたのかわかるところも多い。 |
アウンサン将軍のパネル展示は特に詳しい。 アウンサンは、第2次大戦時に日本の支援で独立のための軍を立ち上げ、イギリス軍を淘汰した。しかし、日本軍が劣勢になると、イギリス側に寝返り、戦後の独立をめざした。イギリスは独立を認めず、英領ビルマ政府の代表として独立交渉を行った。独立が目前になったときに、暗殺された。交渉によって独立した点が、独立戦争を経験したインドネシアやベトナムと異なる。 写真は、アウンサンの一家。真中の下が長女であるアウンサン・スー・チー。 |
1983年、北朝鮮が、アウンサン廟を訪問した韓国の全斗煥大統領を暗殺するための爆弾テロを起こした。大統領は無事だったが、韓国人、ミャンマー人の死者が出た。 ミャンマー(当時はビルマ)はすでに軍事独裁政権の時代になっていて、国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」で、北朝鮮寄りの国であったが、この事件で北朝鮮と断交。(軍事政権末期の2007年に国交回復した。) そして、この廟も爆弾テロのあと閉鎖され、11年前のミャンマー旅行のさいも閉鎖されたままだった。11年前の時点では、軍事政権がアウンサン・スー・チーの人気上昇につながる危険を感じての閉鎖だったと思う。ここが開放されたのは2013年。ただ、毎日開いてるわけじゃなく、土日だけということは知らず、2日前にやってきて入れなかったわけだ。 写真が、殉教者たちの墓が並ぶ廟。真っ赤にぬられている。爆破事件の当時は、まったく異なる廟で、墓の上に屋根があり、その屋根の上に爆弾があったのだという。現在の廟は、位置は同じだが、まったく異なる形で作り替えられたようだ。墓は9つあり、真ん中がアウンサン将軍の墓。 |
アウンサン将軍の墓。他の墓よりは少し大きくつくってある。 |
廟の前には階段がある。撮影している自分の背中の側にも門があったが、閉鎖されていた。外国要人がミャンマーを訪問するときは、ここで献花することが多いようで、最近では安倍首相も同様であったらしい。その場合、閉鎖されている門から入場し、階段を上がるのだろう。 ハングルで書かれた銘板もあり、爆弾テロ犠牲者の慰霊碑と思われる。再び入場した入口へ戻り、退出した。この間、30分ほどだが警備の軍人と掃除人以外は誰も入場していなかった。 |
上左 アウンサン廟を出て向ったのは、2日前にも行ったアウン・トゥカ。最初に予定していた店がどこにあるかわからなかったので、経路などから考えて、ここしか思い浮かばなたった。 上右 今回は、屋内のテーブルに空きを見つけ、屋内で食べた。 左 この日の昼食。調理場まで行って、並ぶ料理に指さして選んだのは2日前と同じ。なるべく、2日前とは別の料理を選んだ。 |
上左 何か尋ねると、フィッシュと答えられたが、何の魚かは不明。身を細かく刻んであるのが特徴。2日前は、まだ形が残るフィッシュを食べたので、別のものと考える。 上右 とうもろこし。とうもろこしの身をすりつぶしたような料理だ。 ギ左 チキンのカレー煮。一品くらいは油ギトグト系があってもいいだろう。 |
上左 無料のつけあわせ野菜。にんじんはかなりひからびている。何度も使いまわされているのだろうからやむを得ないか。 上右 ミャンマービール。炎天下を歩いてきたあとなので、実にうまい。 左 無料のスープ。ネギや竹の子が入っていて、見た目は和風のスープだ。味はチキンからとった出汁がでていて、濃いスープだ。 |
ウ・タント・ハウス行って、ぶらぶら街歩き |
2日前にもやってきたが、閉館だったウ・タント・ハウス。今度は開館しているときにやってきた。 ウ・タントは、ミャンマー(当時はビルマ)出身の国連事務総長。ビルマの国連代表をへて、1961年から1971年まで事務総長に在任した。在任期間中に、キューバ危機やコンゴ動乱があった。 1968年から軍事独裁政権が続く中で、ウ・タントは政権とは距離をおき、退任後も米国にとどまった。1974年の死後、遺体がミャンマーに戻り、シュエダゴンに埋葬されたが、軍事独裁政権では評価されてこなかった。 |
ウ・タント・ハウスは、彼がビルマの国連代表になる前、ビルマ政府の閣僚をしていた当時の家だ。長らく放置されてきたのだが、民主化後の2015年に整備され、公開されるようになった。 ここは応接室のようだが、壁面には彼の業績の展示パネルがある。 下左 彼の書斎。 下右 パネルの中の写真から1枚。若いころのタイのプミポン前国王と握手する姿。このほか、有名政治家との写真が多く飾ってあった。 |
上左 ウ・タント・ハウスを出て、タクシーでボウタタウン・パゴダに向った。ヤンゴンの市街地の北端から南端への移動で、30分ほどかかった。4000チャット。 上右 堂内は金でできた扉が並び圧巻であった。こうした部屋がいくつも連続して、どこまで続くのかと思わせた。彫刻も繊細でひとつひとつ見ると全部違っているのも面白い。 左 ボウタタウン・パゴダを出た後、臨港線の路面電車があるとのことで、停留所で30分ほど待ったが、動いている気配がせず、乗車をあきらめた。果たして運転されているのだろうか。 |
路面電車の乗車をあきらめて、近くのバス停から路線バスに乗車して市内中心部に向うことにした。 とはいえ、行先はミャンマー文字、系統番号はミャンマー数字で、どこに連れていかれるかわからないバスだ。バスの向きが市内中心部の方を向いているという理由だけで乗車。 |
バス車内。立っているのが車掌。乗れば運賃を集めにくる。運賃は200チャット(約17円)。 |
バスが交差点を曲がるとドキッとするが、何とか市内中心部のチャイナタウンで下車することができた。 チャイナタウンを散策。新年の飾りを売る店か。 |
クーン(噛みたばこ)の屋台。 キンマ(コショウ科の植物)の葉っぱの上に、石灰をこねたものを塗り、その上にビンロウ(檳榔)(ヤシ科の木)の種子を刻んだものを置いている。それをガムのように噛むそうだ。そのとき、口の中が真っ赤になるのだという。 |
スーレーパゴダ。ロータリーの真ん中にあるパゴダだ。2階の入口に直結している歩道橋があるので、そこを渡り、2階から入場した。 下左 中に入ると、床面に水を流して掃除をしていた。掃除直後の床は、冷たくてきれいで気持ちがいい。 下右 外側からは中心のパゴダ以外は見えないが、中に入ってみると、中心のパゴダの周りに小さなパゴダが配置されていることがわかる。 |
夕食は、「999」というシャンヌードルの店へ。ベトナムのビール「333」を連想させる店名だ。シャンは、ミャンマーの東部の州。独立運動の活発な地域だ。シャン独自の料理はいろいろあるが、油ギトギト系のめだつミャンマー料理に対して、あっさり系の料理が多い。ヤンゴン到着当日はシャン料理の店で夕食をとった。この店はシャンのヌードル、つまりシャンカウスエの専門店だ。 |
シャンカウスエ。スープ麺とスープなしを選べるのだが、スープ麺にした。麺は米の麺で、標準的な太さの麺だ。1500チャット。 スープはチキンからとっているようだ。全体としてはあまり辛くないが、辣油のようなのが入っていて、ピリッとはする。具は鶏そぼろで、ごまとパクチーがかけてある。漬物が小皿でついてくる。 |
トーフ。一口大に切って、揚げてある。中華圏の臭豆腐に似た食感なのだが、表面には凸凹がなく、臭豆腐や日本の厚揚げとは見た目が違う。タレをつけて食べる。1200チャット。 |
飲物はビールのつもりだったが、この店はビールがなかった。それで、珍しそうなものをと、ストロベリースムージーを注文。スムージーは凍った状態のフルーツや野菜でつくったジュース。2500チャット。 下左 帰り道、コンビニに立ち寄り。 下右 ビールを買って、部屋で飲んだ。アンダマンとヨマ、どちらもミャンマー製のビールだ。外食のさいのビールはほぼミャンマービールしかないのだが、コンビニの缶ビールは結構、種類が豊富なのが不思議だ。 この日は大晦日。部屋で休んでいると、年がかわるころに花火の音がしてきた。公的な行事で大々的にやっているという感じじゃなく、市民が勝手にあちこちで打ち上げてるような音がする。それで、外出が面倒くさくなり、見に行くのはやめて、ベッドで音だけ聞いた。 |
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