4日目 大 晦 日 の ヤ ン ゴ ン
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変わりものパゴダ2つ |
![]() オンノカウスエは、ココナツミルクを大量に入れたスープで一見、トンコツラーメンのスープのように見える。味はとてもまろやかだが、香辛料がきいていて、甘い中に辛さがある。麺は小麦の細麺。ミャンマーの麺はほとんど米麺なので、小麦麺は少数派だ。具は何かの天ぷらのようなもの。 |
![]() モヒンガーとオンノカウスエがミャンマーを代表する麺だが、どちらがよいかと言われたら、自分の場合は、モヒンガーかな。 |
![]() 衣類と雑貨の店がほとんどで宝石店もある。奥のほうの一角には食堂のエリアもあるが、生鮮食料品は扱っていない。 |
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![]() ちょうど列車が停車していた。環状線の列車だろう。線路を歩いて乗り降りする人がたくさんいる。客車の多くは、隣の車両に行けないのだが、最後尾から見ると、そのこともわかる。 |
![]() ミニバスで何とか座ることができた。運賃は200チャット(約17円)。シュエダゴンパゴダまで1.5kmほどなのだが、渋滞があって20分くらいかかった。 |
![]() 下左 仏塔に飾りをつけて、クリスマスツリーにしていた。仏教への信仰のあついミャンマーで、こういうことが許されているのが驚き。 下右 このパゴダの塔だが、離れて眺めると、1階、2階、3階の屋根の下の黒い丸窓が人の目のように見えるのが面白い。 |
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アウンサン廟行って昼食 |
![]() カンドージー湖へは1km強なので歩いたが、日蔭がほとんどない歩道が続いたので閉口した。 突然、エスカレータを備えた屋根付き歩道橋があってびっくりした。しかもエスカレータに近づくと動いたのでさらにびっくり。 |
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![]() この付近にモヒンガーの有名店があるとガイドブックに書かれていたのでやってきたのだ。それらしき付近を数往復して探したのだが、結局わからずじまい。モヒンガーはあきらめ、アウンサン廟を見た後、2日前に行ったミャンマー料理店に再び行こう。 下左 シュエダゴンの東門。この日はシュエダゴンには参拝しないのだが、アウンサン廟に行くためには、参道の階段を途中まで上る必要がある。裸足になって屋根付きの階段を少し上がった。 下右 参道の途中に幹線道路が交差している。写真は南門の方向を撮影している。南門の前から緩い上りになっていて、東門よりは高い位置を道路が通っているのだ。このすぐ近くに、シュエダゴンの丘の上に上がるためのエレベーターがあった。 |
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![]() 上右 中に入ると、右手に軍の詰所のようなのがあり、そこで名前とパスポート(ミャンマー人はID)の番号を書かされた。外国人は入場料がいるようで、お金を集めにやってきた掃除人に3000チャットを払うと、胸にシールを貼られた。MARTYRは殉教者の意味で、アウンサン以外にも独立に尽くした人物が葬られている。だから正確には「殉教者廟」なのだが、一般的には「アウンサン廟」とよんでいるようだ。 左 墓まで200mほどの間にパネル展示がおこなわれている。葬られている人物の功績の紹介だ。ほとんどミャンマー語だけなのだが、雰囲気は伝わってきて、何を言いたのかわかるところも多い。 |
![]() アウンサンは、第2次大戦時に日本の支援で独立のための軍を立ち上げ、イギリス軍を淘汰した。しかし、日本軍が劣勢になると、イギリス側に寝返り、戦後の独立をめざした。イギリスは独立を認めず、英領ビルマ政府の代表として独立交渉を行った。独立が目前になったときに、暗殺された。交渉によって独立した点が、独立戦争を経験したインドネシアやベトナムと異なる。 写真は、アウンサンの一家。真中の下が長女であるアウンサン・スー・チー。 |
![]() ミャンマー(当時はビルマ)はすでに軍事独裁政権の時代になっていて、国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」で、北朝鮮寄りの国であったが、この事件で北朝鮮と断交。(軍事政権末期の2007年に国交回復した。) そして、この廟も爆弾テロのあと閉鎖され、11年前のミャンマー旅行のさいも閉鎖されたままだった。11年前の時点では、軍事政権がアウンサン・スー・チーの人気上昇につながる危険を感じての閉鎖だったと思う。ここが開放されたのは2013年。ただ、毎日開いてるわけじゃなく、土日だけということは知らず、2日前にやってきて入れなかったわけだ。 写真が、殉教者たちの墓が並ぶ廟。真っ赤にぬられている。爆破事件の当時は、まったく異なる廟で、墓の上に屋根があり、その屋根の上に爆弾があったのだという。現在の廟は、位置は同じだが、まったく異なる形で作り替えられたようだ。墓は9つあり、真ん中がアウンサン将軍の墓。 |
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![]() ハングルで書かれた銘板もあり、爆弾テロ犠牲者の慰霊碑と思われる。再び入場した入口へ戻り、退出した。この間、30分ほどだが警備の軍人と掃除人以外は誰も入場していなかった。 |
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![]() 上右 今回は、屋内のテーブルに空きを見つけ、屋内で食べた。 左 この日の昼食。調理場まで行って、並ぶ料理に指さして選んだのは2日前と同じ。なるべく、2日前とは別の料理を選んだ。 |
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![]() 上右 とうもろこし。とうもろこしの身をすりつぶしたような料理だ。 ギ左 チキンのカレー煮。一品くらいは油ギトグト系があってもいいだろう。 |
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![]() 上右 ミャンマービール。炎天下を歩いてきたあとなので、実にうまい。 左 無料のスープ。ネギや竹の子が入っていて、見た目は和風のスープだ。味はチキンからとった出汁がでていて、濃いスープだ。 |
ウ・タント・ハウス行って、ぶらぶら街歩き |
![]() ウ・タントは、ミャンマー(当時はビルマ)出身の国連事務総長。ビルマの国連代表をへて、1961年から1971年まで事務総長に在任した。在任期間中に、キューバ危機やコンゴ動乱があった。 1968年から軍事独裁政権が続く中で、ウ・タントは政権とは距離をおき、退任後も米国にとどまった。1974年の死後、遺体がミャンマーに戻り、シュエダゴンに埋葬されたが、軍事独裁政権では評価されてこなかった。 |
![]() ここは応接室のようだが、壁面には彼の業績の展示パネルがある。 下左 彼の書斎。 下右 パネルの中の写真から1枚。若いころのタイのプミポン前国王と握手する姿。このほか、有名政治家との写真が多く飾ってあった。 |
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![]() 上右 堂内は金でできた扉が並び圧巻であった。こうした部屋がいくつも連続して、どこまで続くのかと思わせた。彫刻も繊細でひとつひとつ見ると全部違っているのも面白い。 左 ボウタタウン・パゴダを出た後、臨港線の路面電車があるとのことで、停留所で30分ほど待ったが、動いている気配がせず、乗車をあきらめた。果たして運転されているのだろうか。 |
![]() とはいえ、行先はミャンマー文字、系統番号はミャンマー数字で、どこに連れていかれるかわからないバスだ。バスの向きが市内中心部の方を向いているという理由だけで乗車。 |
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![]() チャイナタウンを散策。新年の飾りを売る店か。 |
![]() キンマ(コショウ科の植物)の葉っぱの上に、石灰をこねたものを塗り、その上にビンロウ(檳榔)(ヤシ科の木)の種子を刻んだものを置いている。それをガムのように噛むそうだ。そのとき、口の中が真っ赤になるのだという。 |
![]() 下左 中に入ると、床面に水を流して掃除をしていた。掃除直後の床は、冷たくてきれいで気持ちがいい。 下右 外側からは中心のパゴダ以外は見えないが、中に入ってみると、中心のパゴダの周りに小さなパゴダが配置されていることがわかる。 |
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![]() スープはチキンからとっているようだ。全体としてはあまり辛くないが、辣油のようなのが入っていて、ピリッとはする。具は鶏そぼろで、ごまとパクチーがかけてある。漬物が小皿でついてくる。 |
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![]() 下左 帰り道、コンビニに立ち寄り。 下右 ビールを買って、部屋で飲んだ。アンダマンとヨマ、どちらもミャンマー製のビールだ。外食のさいのビールはほぼミャンマービールしかないのだが、コンビニの缶ビールは結構、種類が豊富なのが不思議だ。 この日は大晦日。部屋で休んでいると、年がかわるころに花火の音がしてきた。公的な行事で大々的にやっているという感じじゃなく、市民が勝手にあちこちで打ち上げてるような音がする。それで、外出が面倒くさくなり、見に行くのはやめて、ベッドで音だけ聞いた。 |
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