2日目  コ レ ヒ ド ー ル 島  

    

  一夜明けて、窓から外を見ると、いい天気。右の画像の上部に写っているのが、マニラ南港。その左端あたりに、コレヒドール島行きの高速船の乗場がある。ウェルカムフルーツと前夜に買ったパンで朝食。6時30分に出発。

  ホテルから高速船乗場までは500mほど。ただし、途中に幹線道路を横断したり、公園内で体操をしている人たちをよけて歩いたりしなければならないので、15分くらいかかった。

 

 

  この日は日曜日だったので、人出が多いのだろうか。公園内のあちこちで、体操が行われている。この体操、ジャズダンス風のもので、ラジオ体操や太極拳などに比べると激しい動きで、すぐに疲れそうなものだ。

  コレヒドール島へは、サンクルーズ社の1日ツアーで行く。メールのやり取りをして、予約できていると思いこんでいたのだが、、

 

 

  7時からチェックイン開始。しかし、窓口が2つあって、1つは、予約済みで支払いまで終わっている人、もう1つは、予約なし。嫌な予感。

  自分は、メールで名前を伝えてある。しかし、支払いはしていない。で、支払いが終わっている列に並んだが、結局、予約なしのほうに回された。そこでは、名前を登録して、空席のある限り、受付が行われるようだ。

 

 

  メールでは、事前に支払いをしておくように、なんて言われなかったゾ。わかっていれば、前日に、待合室近くにあるサンクルーズ社のオフィスまで足を運んだのに、、

  メールでの予約は、何の意味もなかったのだ。当日申し込みでも、乗れたことは乗れたので、良かったのだが、残席は少なく、危ないところだった。

 

 

  なんとか当日申し込みができてヤレヤレ。ツアー代金、1690ペソ(約4050円)。これには昼食が含まれているが、マリンタトンネルでの「音と光のショー」150ペソ(約360円)は含まれていない。

  乗船できたのは8時の出航直前。座席は指定席になっている。コレヒドール島はマニラ湾の入口に位置し、マニラから50km弱だ。

 

  

  9時10分、コレヒドール島に到着。港には、かつて島に走っていたという路面電車に模したバスが待っていた。この日は、6台のバスが運行され、うち1台が日本語ガイドのバスだったので、それに乗車。

  この島は、19世紀のスペイン時代に、灯台と検問所が設置され、20世紀に入り、米国領になってからは、要塞化がすすめられた。

 

  要塞化が完了したのは1941年。その直後に太平洋戦争が始まり、翌年、マッカーサー将軍は、オーストラリアへ脱出。その後、バターン半島の激戦ののち、この島は日本軍が占領した。1945年2月、この島で激戦があり、日本軍玉砕。1989年以降、島の復興がすすめられ、戦跡めぐりの観光地として整備された。

  9時20分、バス出発。6台のバスは、周遊する順序をそれぞれ変えて、下車地点が重ならないように回っているようだった。

  最初に下車したのはマッカーサー像。オーストラリアに脱出する際の、I shall return. は有名な言葉である。太平洋戦争開戦後、米軍はマニラから撤退し、この島とバターン半島に移動したのだ。そして、米極東軍の司令部はこの島に置かれた。だから、マッカーサーはこの島からフィリピン脱出となったのだ。

  マッカーサーがフィリピンに戻ったのは1944年10月。このときには、レイテ島のタクロバンから上陸している。で、そちらに、ランディングメモリアルがある。

  マッカーサー像のところから、対岸のバターン半島がよく見えた。半島までは8kmと近い。この半島で捕虜にした米軍兵士を、100kmほど離れたところへ移動させた際に、死の行進と呼ばれる事件がおこった。

  

 

  島のあちらこちらに日本軍のたてこもった洞窟があった。バスから撮影しただけなので、洞窟の詳細はよくわからない。

 

 

 

  日本平和庭園へ。慰霊碑、戦没者の墓、慈母観音像などが建てられている。

  

 

 

 

 

  日本軍の大砲。あとで見た米軍ののものに比べて、小さい。

 

  フィリピン軍英雄記念碑。フィリピン兵士の慰霊碑。

  さらに、島の東部には飛行場跡があるのだが、時間の関係でカット

 

 

 

  マリンタトンネル。中心となるトンネルは長さ250m、幅7mだが、支線のトンネルがたくさん枝分かれしている。1932年に完成し、太平洋戦争時には、米軍の司令部になった。また、野戦病院としても使われた。

  1945年2月には、追い詰められた日本軍が、トンネルを爆破させて玉砕した。  

 

  10時30分から、「音と光のショー」。これは、オプションとはいうものの、トンネルの入口でバスを降り、トンネル内をショーを見ながら歩いて、40分かけて反対側に出ると、バスが待っているというものだから、ツアーの一部のようなものだ。

 

 

  

  トンネルの支線を利用しての展示や、スライド映写を見ながら、トンネルをゆっくり歩いた。

 

 

  

  トンネルの案内板の前で説明するガイド。トンネルに支線がたくさんあるのがわかる。

 

 

   

  コレヒドールホテルで昼食。味はイマイチ。

 

 

 

  

  昼食後は再び戦跡めぐり。12時10分出発。まずは、地下貯水池へ。ここは日本軍も島を攻撃するときに、存在を知らず、爆撃対象にしなかったらしい。

 

 

  ミドルサイド兵舎。3階建ての建物の廃墟が延々500mくらい続いていた。この部分は米兵の兵舎で、続いてフィリピン兵の兵舎があった。

 

 

 

  ウェイ砲台。12インチ砲4門。米軍が最も戦闘に使った砲台。海岸にあるのではなく、山の中腹にあった。きれいに整備されていて、最近のものかと見間違う感じだ。

 

 

  上の砲台の弾薬庫。中にも入った。通風孔などが設けられていた。

 

 

 

 

  ハーン砲台。こちらは、長距離砲。砲身は下に置いてあった。砲台を回転させるとともに、上下動もできるよいうになっている。弾薬庫の中にはエレベータがあり、弾薬を地上階から、砲台まで楽に上げられるようになっていた。

 

  この砲台のすぐ近くに、日本軍の司令部跡があった。

 

 

 

 

  

  島にある砲台の中で、一番高い場所にある砲台。島の陥落を喜び、この砲台に群がる日本軍兵士の画像も残されている。

 

  マイルロング兵舎。

  島の最高地点にある兵舎。3階建ての建物が1km以上も続いていることから、マイルロングと呼ばれる。当時としては、最新式の設備を持っていた。これだけ長い建物には驚いた。

  この兵舎の一番端の部分が、マッカーサーが指揮をとった司令部であり、画像はその部分。

  建物の前には広い練兵場が広がっていた。

 

 

 

  映画館の跡。

 

 

 

 

 

  太平洋戦争メモリアル。

  下は、最高所近くから見た島の東部。

  太平洋戦争記念館の内部。

 

 

 

 

 

 

  灯台。19世紀のスペイン時代につくられたが、太平洋戦争で破壊され、これは戦後、修復されたもの。上からは、ジャングルに覆われた島の様子がわかる。

  このあと、港へ。14時20分、港着。すでに、他のバスの乗客は船に乗り込んでいた。14時30分、出航し、マニラへ。帰りの船内では、たいていの客は眠っていた。

  15時40分、マニラ帰着。

 

 

  マニラ帰着後、タクシーでパコ駅前にある高山右近の像を見に行った。

  高山右近は、キリシタン大名で知られる。彼は、摂津の高槻城主であったが、幼少時に洗礼を受けていた。

  戦国時代によくある血を血で洗うような抗争を勝ち抜き、信長の信頼を得、1582年、本能寺の変の後、山崎の合戦では、秀吉側の先鋒をつとめた。

  しかし、1588年、秀吉によりキリシタン禁教令がだされ、領地をすべて放棄するかわり信仰を守る道を選んだ。その後、加賀の前田家の保護を受けていた。

  江戸時代になり、1614年、2代将軍、秀忠のときに、キリシタン追放令が出され、マニラに追放されることになった。マニラに到着後、長旅の疲れがでてか、病に倒れ、死亡した。スペイン総督の命で盛大な葬儀が行れた。

 

 

   

  パコ駅付近には、当時、タイのアユタヤなどとならぶ日本人町があったのだが、今や、その面影はまったくない。

  駅前の児童公園プラザ・ディラオにある右近の像が唯一、日本を感じさせるものであった。

  適当な列車があれば、パコ駅からPNR(フィリピン国鉄)に乗車しようと思っていたが、駅が改修中で駅舎の中に入れなかった。で、再び、タクシーでイントラムロスに向かった。

 

  イントラムロスでは、前日、時間切れで行けなかったところを回った。

  まず、バハイ・チノイ(フィリピン華僑歴史博物館)へ。スペイン時代に、一時は迫害を受けながらも、その末期から米国時代に華僑社会が成立した。

  コラソン・アキノも華僑系であることをはじめて知ったほか、有名人物が結構多いこともわかる。

  

  次に、カーサ・マニラ博物館へ。

  スペイン時代の上流階級の邸宅。内部の撮影は不可であったので、中庭を撮影。

  

 

 

 

  再び、タクシーで、ハリソン・プラザというショピングセンターに向かい、店内をぶらぶらしたあと、ビュッフェスタイルのフィリピン料理店で夕食。

 

  画像右下は、焼き魚のイニハウ。何の魚かは不明。右上は、シニガンというエビの入ったスープ。酸味がきいているのが特徴。左下は、タコやイカのてんぷら。現地名は不明。ケチャップに見えるのは、バナナからつくられたフフランソース。ご飯は、カニンといい、日本のご飯と他の東南アジアに多い、パラパラなご飯の中間のような感じ。

  ハリソン・プラザからは、ホテルが近く、歩いて帰った。

 

 

 

 

 1日目  マニラのトップページ  全体のトップページ   3日目