5 日 目 パトンビーチでのんびり
パトンを歩き津波の痕跡と復興をみる |
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プーケットで泊まったホテルは朝食がついていない。前日、夕食から帰ってきたときに、ホテルの1階にあるスーパーで買い物をして、朝食を調達しておいた。 部屋で湯が沸かせるので、カップラーメン。それにパンを少し。 こういう朝食はあまりしたことがないが、たまにはいいものだ。
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市場の付近の路上から、プーケット島内の各地に向かうソンテウが出ている。 ソンテウは、本来はトラックの荷台に向かい合わせの長椅子を設置したもので、タイの地方都市では、おもに市内の路線バスの役割を果たしている。 プーケットの場合も、市場を中心にして、放射状のソンテウ路線網がある。ところが、パトンビーチとカロンビーチ行きのソンテウは普通のバスを使っていた。それでも、ソンテウというらしい。バスのソンテウをみたのははじめてだ。 |
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車内も、普通の路線バスとして使われていた時代のまま。動き出してしばらくしたら、車掌が運賃を集めにやってきた。20バーツ(約57円)。 なお、パトンビーチに着いてからわかったのだが、パトンビーチ行きのソンテウの全部が大型バスを使っているわけじゃなく、大型バスと本来のソンテウが混在しているようだった。 パトンビーチまでは40分ほどだった。複雑なコースを通り、距離は15kmくらいだが、案外と時間がかかった。 |
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この日は、パトンビーチでゴロンして、のんびりと過ごすつもりなのだが、その前に、パトンの街を一通りみて回っておいた。 プーケットといえば、スマトラ島沖地震のさいに津波がプーケットを襲う画像が印象深い。あの画像はパトンビーチのものだ。それだけに、津波の爪痕や復興の様子もみてみたいと思う。 津波の避難路の標識。300mというのは、スマトラ島沖地震のさいの津波が押し寄せた先端なのだろう。 |
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ビーチに面した大通りの丘側。観光客向けの店が並んでいる。こんな感じで1kmほど続いている。 まだ津波の爪痕が残っていた。古い建物を解体しているようだった。津波のあと、ずっと廃墟になっていたのだろうか。このほか、営業中のお店でも、いかにも仮店舗って感じのところも散見された。 かつて市場があったところ。ションピングセンターができていた。 |
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これは、津波危険区域の標識。地震の時には、高いところに行くように、とのこと。 今回持って行ったガイドブックは05-06年版。もう6年ほど前の版だ。しかも、プーケットについては、スマトラ島沖地震の津波が襲う前の地図が描かれていて、今はまったく違っている。 地図については、何の役にもたたなかった。それだけ、店などが大きく変わったってことだ。 |
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パトンではなぜかロシア語を時々みかけた。タイのほかでは、ないだけに不思議な感じだ。 ロシア人がよくやってくるのだろうか。 МАТРЁШКА ТУР ・・・マトリョーシュカТУР ということだが、これはお店の名前だろう。ダイビング関係のお店のようだ。
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タイの地方都市では、タクシーはあまりなくて、代わりにトゥクトゥクがその役割を果たしていることが多い。たいていは、オート三輪車である。前向きに乗るタイプと向い合せに乗るタイプがあり、都市によってタイプが違う。 プーケットでは、軽トラックの荷台を改造したものがトゥクトゥクとして走っている。これは初めてみた。 それにきれいなのだ。津波被害のあと、従来型のオート三輪車のトゥクトゥクを一斉にやめて、新しくしたのかもしれない。 |
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車体の横に入口があるタイプと後ろに入口があるタイプがある。 横に入り口があるタイプだと座席は前向きか後ろ向きになる。 後ろに入口があるタイプは、座席は縦に向かい合わせとなり、ソンテウの小型版って感じだ。 色は赤が多いが、黄色や黄緑のもあった。形や新しい点は同じだ。 |
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パトンビーチでビーチチェアにゴロン |
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パトンの街を散歩したあとは、ビーチへ。 パトンビーチの北端から南端まで30分ほどかけて、ビーチを裸足で歩いた。細かい砂の遠浅の海岸が延々と続く。 日差しをさえぎるものがないので、モロに太陽光線を浴びて歩いた。30度を超えていて、さすがに暑く、途中で一休み。 |
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パラセーリングやバナナボートなどのマリンスポーツを楽しむ観光客を眺めながら、ビーチの端まで歩いた。 沖にはクルーズ船も停泊している。乗船客がビーチに向かうのだろうか。
ビーチには、カラフルなビーチパラソルが開いていて、その下にビーチチェアに寝そべる人の姿が。
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どのあたりのビーチチェアがよいかを探す。よくみていたら、適当に座れば、そのビーチチェアのエリアを管理する人がやってきてお金を払えばよいと判明。 結局、ビーチの最前列が空席となっていたこのビーチチェアにすることにした。ここにタオルを敷いて、Tシャツも脱いでゴロンする。 すぐに管理人がやってくる。1日レンタルで100バーツ(約290円)を払う。パラソルと2つのチェアを使えるとのこと。パラセーリングもすすめららたが断る。飲物も聞かれたが、持ってきていると言い、パス。 |
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1時間ほどビーチチェアでゴロンして、居眠りしたりしていた。 やがて昼どきになり近くのレストラン「サバイサバイ」に向かった。 飲物はシンハビールを注文。温まらないようにウレタンケースにくるまれて運ばれてきた。 |
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ヤム・ウンセン。 ウンセンは春雨のこと。ヤムは、ナンプラー、唐辛子などであえる、ということ。いわば、春雨のあえ物ということだ。 具として、えび、豚肉、たまねぎやトマトなどの生野菜が入っている。 酸っぱいサラダって感じの料理だ。 |
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グリーンカレー。
緑っぽい色をしているカレー。この色のカレーはタイ独特で、日本のルーでつくるカレーはもちろん、インドのカレーとはまた違ったカレーだ。 具は、シーフードを選んだが、ほかに、チキン、ビーフ、ベジタブルとあった。 グリーンカレーには、ご飯がついていた。 |
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昼食から戻り、ふたたびビーチチェアにゴロンと寝そべった。 特に何かするわけでもなかった。何もせず、ただボーッと時間の過ぎるのを待っていたって感じだ。ときどき居眠りもした。 こうして2時間ほど過ごした。 |
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15時ごろに、パトンビーチから撤退する。 帰りは普通の形のソンテウ。 ただ、大きな荷物を屋根に乗せられるようになっているのが、普通のソンテウとちょっと違う。大きな荷物をもった観光客が乗ることも想定しているのだろう。料金は 、行きのバスタイプと同じ20バーツ。 |
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ふたたびプーケット旧市街を街歩き |
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ソンテウの終点は市場近くのロータリー。ロータリーにあるポリスの詰め所は面白い。屋根がポリスのヘルメットを模したものになっている。 薬箱から見るに、昔風の薬局。かつては漢方薬局だったんだろうか。今は違うようだけれども。 4階建ての中国とポルトガルの折衷建築。 |
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普吉泰華博物館。プーケット中国系タイ人博物館てことか。ここは2010年に開館したばかりの新しい博物館。この日は17時の閉館に間にあうようにやってきた。 プーケットの華人の歴史や文化についての展示を行っている。ソンテウは普通車というらしい。 左は、博物館の一角の様子。 |
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暑い中、歩いていると冷たいものを食べたくなってきた。 カキ氷の下にはゼリーや豆が入っている。マレーシアではアイスカチャンとよばれるもの。食べ始めてから、こりゃ、お腹いたになるかもって心配したのだが、なるときにはなるっと思い、全部たいらげた。結局、何ともなかったけど、しばらく心配していた。 氷を食べたお店のそばにも由緒ありそうな建物があった。 |
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古い建物の中には取り壊しているものもあった。建てなおす建物も従来の様式のものにするのだろうかと気になる。 プーケット旧市街の多くの建物は独特の様式なのだが、廃墟とはいえないまでも、とても古いものが多いので、今後どうなるかが気になる。 建物の2階部分の下に誰でもが通れる通路がある様式。亭仔脚という。中国の福建省が起源だと言われ、中国南部でよく見られる。台湾や東南アジアの華人進出エリアでもある。 |
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1階が通路になっていて、誰でも通れる。2階の床が天井になっていて、雨の日や日差しが強い日は便利だ。露店が出たり、バイク置き場になる場合もある。
プーケット旧市街でも見られた。この画像のところは、きれいな状態だが、この街では、各所有者が、通路まで占有していて、隣との行き来ができないように、商品を置いたり、植木でふさいだりしているケースを散見した。歩きにくくて残念だった。どこもこのようになっていくとすれば困るなぁ。日よけにもなる。ここには露店商が並んだ |
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いったん、ホテルに戻る。ビーチでゴロンしながら、旅程の変更を考えていたので、それをネットで調べたりした。 旅程の変更の作業は時間がかかるので、いったん中断して夕食に出かけた。 普吉泰華博物館では、博物館にしては珍しく中華系のレストランや屋台の紹介を、文化の紹介として扱っていたので、その中で福建麺の店に行くことにした。が、行ってみると、昼間だけの営業だったので、その隣の店に入った。 |
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旅行者はまったく見かけない現地人しかこない大衆食堂。
チキン入りの麺。小麦の中麺。味もよい。 おかずとして、えびの天ぷらも注文。 店頭の屋台風の調理場で、麺も揚げものもつくっている。 |
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ホテルに戻って、旅程の変更作業。いろいろとやっていると、結局、その夜はほとんど徹夜状態だった。 当初は、プーケットからハジャイまで行ったあと、マレーシアのコタバルに抜ける計画でコタバルのホテルも予約していたのだが、治安状況を考えて、マレーシアのペナンに抜けることにして、ホテルの予約もしなおしたのだ。また、ペナンからクアラルンプルまでのエアアジアやクアラルンプルのホテルの予約も行った。 ホテルの自室でネットが使えるからできたわけで、便利な時代になったものだ。 |
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