2 日 目 前 半  大  渓   老  街

 

  2日目、まず日帰り旅の前に朝食に出かける。

 サンルートで外出しての朝食は、雙城街でとっていたのだが、ずっと同じなので、今回は少しだけ足を伸ばして、林森北路(リンセンペールー)の四海豆漿大王(シーハイトウチャンターワン)へ。

 林森とは、辛亥革命から大陸に中華民国があった当時の軍人、政治家。台湾では林森路が各地にある。

 鹹豆漿(シェントウチャン)。塩からく味付けした豆乳。熱いのと冷たいのがあるが、熱いのを注文。何も言わなくても、油条を小さく切ったものが入れられた。

 甘く味付けされた甜豆漿(ティエントウチャン)もあり、こちらも熱いのと冷たいのがある。いづれも35元(約100円)。

 あと、小龍包も注文。店頭にせいろがつまれていて、小龍包や肉包が蒸されていた。

 タレとしょうがは、セルフサービスでとってくるようになっている。熱い汁が飛び出してくる。50元(約140円)。

 これだけ食べた後、サンルートに戻り、すぐに荷物を持って外出する。MRTで民権西路から台北車站へ。

 

  MRT台北車站で下車して、地下の改札通路を出ると、そこは台鉄(台湾鉄路局)と高鉄(高速鉄道)の台北站の改札が並んでいる。

 台鉄の対号(座席指定列車)の自動券売機。指定券を購入できる。なお、普通の自動券売機でも、車種を選ぶボタンがあり、「区間」「自強」「莒光」などを選ぶようになっているのだが、この場合は、「自強」のボタンを押しても、無座(自由席)の切符しか買えないので要注意である。

 対号の自動券売機はなんとなく、ボタンを何度も押していると、買いたい切符を買えた。切符が出てくるまでに、何度も画面が変わった。

 なお、この券売機では、翌日以降の予約券を買ったり、台北以外の駅から出発する場合の指定券を買ったりすることもできることを確認した。

 買った切符。66元(約185円)で、30kmほど乗って座席指定とは、日本ではありえない。

 列車の出発案内。乗車するのは下から2つ目の、「往高雄115次山線経由自強」である。「準點」とは”定刻どおり”ということ。

 「月台」はホームのこと。ひとつのホームの両側がAとBになっている。台北車站では、1と2が高鉄、3が台鉄南下列車、4が台鉄北上列車。

 南下、北上のほかに、逆行、順行という表現の場合もある。時計回りが「順行」、反時計回りが「逆行」。西部幹線では「南下」=「逆行」だが、東部幹線では「南下」=「順行」となる。

 ホームに下りて待つ。ホームが2つしかないので、台北車站から出発や到着という列車は原則としてない。乗車する列車は、七堵が始発である。

 やってきた自強号は、窓周りの色がなんだか薄かった。本当はもっと鮮やかなオレンジ色なのだが。

 桃園まで30分弱。台北出発のあとすぐに板橋に停車し、そのあとは桃園まで無停車。

 リクライニングを倒して、足置きに足を載せてくつろいでいたら、板橋あたりで眠りに入った。完全に熟睡し、桃園に止まる直前まで何の記憶もなし。ホント危ないところだが、桃園の手前で目が覚めた。

 桃園を出発していく列車を最後尾で撮影。この形の自強号はホント久しぶりの乗車だった。

 桃園で下車するのは2回目。前回はまだ高鉄がない当時に、台南からやってきて桃園機場に向かうために下車したとき以来5年ぶり。

 自分の背後にはデパートがあるのだが、そのデパートの前に駅の裏側に行く地下道がある。その地下道を通って、桃園客運のバスターミナルに向かう。

 下左  ここから地下道に入り駅の下を通って、後站(駅の裏側)へ。駅前に比べてなんとも寂れた感じの駅裏だ。

 上右  5分ほど歩くと桃園客運のターミナルに到着。周辺と比べて大きく新しい建物だ。

 左  ターミナル内。人は多くない。

 下左  大渓までは49元。台湾のバスはおつりは出ないことが多いので、こういうのには一番困る。50元払って、おつりなしでも147円のところ150円払うだけの話なのだが、なぜか気になってしまう。

 下右  両替機があったので両替。100元紙幣が10元9枚、1元10枚の硬貨になった。

  10分ほど待って大渓バスがやってきた。49元払うと下車するバス停の書いた細長いカードを渡された。台湾ではこのやり方は多い。

 バスの中で、やがて熟睡。40分ほどの乗車で、まもなく大渓の中心部に入るところで目覚めた。

 バスターミナルは大渓(タージィ)の街の南の端にあるようだ。

 このとき10時30分ごろだったが、13時10分のバスで慈湖(チーフー)に向かうことにして、2時間30分ほど、大渓の老街などを見てまわり、昼食もとってしまうことにした。

 また、このバスターミナルから台北行きのバスが30分に1本でていることも判明。台北のどこに向かうのかよくわからないが、帰りは台北までバスで戻ることにしよう。 

 桃園客運の大渓バスターミナル。

 2年ほど前に周囲の環境にあうような建物に再建されたようだ。どうりで古いスタイルだが、建物は新しい。

  大渓は19世紀はじめに、河港として発達した。大きく発展したしたのは日本統治時代の1920年代。このころにヨーロッパ風のアーチや柱、中国風の彫刻を使った騎楼がつくられた。

 大渓の老街はこのころの建築で、中山路と和平路の2箇所がある。このうち和平路は大渓で一番にぎやかな繁華街になっている。一方、中山路は今はひっそりとしている。

 画像は、中山路に残るレンガのアーチ。

 中山路でも一番、豪華なつくりになっている建成商行。

 樟脳と鉱石で財を得た簡阿牛の店舗であったが、今は建物部分は残っていない。
 
 玄関の上には日本語のローマ字書きで「KENSEI SHOCO」と書かれていた。COは英語のCorporation(株式会社)と引っ掛けたのかな。
 武徳殿。

 日本統治時代には武道が重んぜられ、台湾の各地に武徳殿が作られた。これらは警察署に属し、警察官やその子弟が柔道、剣道を行った。床は板張りであることが、窓から覗いて見えた。

 蒋介石の像と蒋公記念館の別館。ティールームになっている。建物内にも蒋介石。

 1921年、皇太子(のちの昭和天皇)の台湾訪問の際に同行した随員が宿泊した場所が公会堂になった。現存するのは1932年に改築された赤レンガの公会堂。

 戦後は、総統行館となった。蒋介石の宿泊用として使われた別館もできた。蒋介石没後の1978年、蒋公記念館の別館となり、展示施設として開放された。本館も蒋公記念館と名づけられている。
 1932年に大渓神社ができ、戦後、大渓中央公園となった。

 神社には忠魂碑があった。ここはその跡。

 日本統治時代の初期にこの地では原住民のタイヤル族が抵抗し、日本人が襲われた。その際になくなった日本人の忠魂碑が作られた。戦後、忠魂碑の上部は取り除かれ、土台だけが残され、公園の休憩所として利用されている。

 

 公園の中心になっている表演広場。ミュージシャンがライブ演奏していた。

 ここは日本統治時代には相撲場があった場所であった。

  大渓橋。観光用の人道橋で自転車は可の橋。車道は少し離れた橋を使う。夜間はライトアップされる。

 この付近の川の中州は岩石でできていて独特の形をしている。

 下左  橋のゲート。

 下右  橋の人道。

 普済堂。関帝を祀る廟で1901年につくられたもの。
 和平路の老街へ。老街が大渓でもっともにぎやかな通りになっていて、人があふれていた。

 中山路の老街よりも規模も大きく、頭上の彫刻にもより手が込んでいる。

 

 

 中には前面だけ昔の建物のままにして、後ろを改築しているところもある。

 豆干は、豆乾ともいい、豆腐を干したもので、大渓の名物のようだ。

 ここで昼食。店頭でおでんのようなものを作っていた。
 甜不辣。

 台湾風おでんのこと。もともと日本から入ったが台湾風に進化したもので、大根、つみれ、豆腐などが入り、味つけはとても濃い。45元。

 屋台で芋棵巧を売っていた。芋餅といったところか。
 芋棵巧を立ち食い。25元。

 

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