2 日 目

 

 今回泊まったホテルでは、朝食は、パンと飲み物などが置いてある部屋があり、そこから必要な分を自室に運んで食べるというスタイル 。

 レストランのスペースを省くための方法なのだろうか。飲み物にはふたをつけられるようにはなっていたが、部屋まで運ぶのはちょっとつらい。幸い、自室と朝食のある部屋は1階違いだったのでまだよかったけど。

  この手のホテルは米国で安いところや関係者しか泊まらないところでは、まぁまぁ見かけることもあるけど、一般的なものではないようだ。

 この日はベイエリア南部を一周する。まずはカルトレインの駅に向かうため、メトロに乗車。

 メトロは近代的な路面電車で基本は連節車である。ほとんどの部分は路面電車だが、都心部は地下鉄になる。サンフランスコは地下鉄はないが、メトロとBARTの都心区間が地下を走る。

 メトロはいくつかの系統があり、都心と郊外を結んでいる。どの系統も都心の地下区間は走るので、都心だけは来た電車に乗ればよい。地下区間だけは改札口があり、地上区間は停留所から直接に乗降する。

 ホテル最寄りのパウエルからカルトレインのサンフランシスコ駅へはメトロの「N」「T」に乗車すればよい。15分でサンフランシスコ駅に到着。

 予想していた重厚な駅舎ではなく、ガラスばりの軽い感じの駅だった。

 カルトレインは、平日には急行、快速があり便利なのだが、週末は各駅停車が1時間に1往復しているだけだ。とはいえ、時刻表をよく見て行動すれば、不便というほどでもなかった。

 カルトレインは、19世紀中ごろにその前身が開業し、その後、大陸横断鉄道のサザン・パシフィック鉄道の一部となった。比較的、通勤輸送に力を入れてきた、米国では珍しい路線だった。しかし経営難のために、サザン・パシフィック鉄道は廃止を計画していた。そのため、1987年からは沿線自治体が運行権を買収し、沿線自治体によって営業がなされている。

 カルトレインは非電化で、ディーゼル機関車牽引の列車であるが、電化の計画もある。 ディーゼル機関車の中には新型のもあったが、走行するのは見られなかった。

 客車は2階建てだが、2階席は両方の窓側に1人席があるだけだ。そのため車掌による車内改札のさい、車掌は1階を歩くだけで、2階の乗客からも切符を提示させることができる。2階の乗客は足もとに切符を出して、車掌に見せていた。

 ほとんどの駅は無人駅だったが、自動券売機が設置されていた。週末は乗客が少ないのだろうか、自分の乗った車両もガラガラだった。

 1時間ほどでバロアルトに到着。ここも無人駅だが、ここがスタンフォード大学の玄関駅だ。

 平日であれば、この駅から大学の構内をめぐる無料のシャトルバスが出ているのだが、残念ながらこの日は土曜。歩いて大学に向かうことにした。

 バロアルトの駅から500mほどでスタンフォード大学の入口にさしかかる。このあと、びろう樹の並木道を1.5m歩く。でもこの道を歩くことができて、かえってよかったと思う。

 1.5km歩くと視界が開け、正面にメインクワッドが見えてくる。ここが大学の心臓部といえる。その奥にメモリアルチャーチがあり、両側に創立時からの教室がある。




 

 

 

 

 

 右はメモリアルチャーチ。美しい宗教画が描かれていている。

 メモリアルチャーチの内部。表も美しいが、内部はステンドグラスを通って光が差し込むのがきれいだ。入口の上部にある大きなパイプオルガンも見ものだ。

 塔はフーバータワー。大統領のフーバーが建てたタワー。ここからの眺めがいいらしいのだが、残念ながら、工事のためにはいることができなかった。

 このあと、ロダンの彫刻がたくさん見られるカンターアーツセンターにはいり、行きとは別の道を通って駅に戻り、下車した列車の2時間後の列車でサンノゼに向かった。

 30分ほどの乗車でサンノゼ着。この駅ではアムトラックの列車も見た。サクラメント行きのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 路面電車(ライトレールとよばれている)に乗車した。運転間隔はひとつの系統だけだとかなり長い。中心部では複数の系統があるから比較的短いが、サンノゼ駅からは週末の場合は30分間隔だった。

 経営は車体にも書いてあるがVTA。VTAとはサンタクララバレー交通局のこと。サンタクララバレーとは、俗称でシリコンバレーの正式名。

 停留所に券売機があって購入してから乗車する。その券売機の言語が、英語・スペイン語・中国語・ベトナム語から選ぶことができるようになっていてびっくり。

 シリコンバレーにはベトナム移民がそんなに多いのだろうか。いや、多いからベトナム語が幅をきかせているわけだ。サンフランシスコにきて、アジア系がとても多いことはすぐにわかった。

 車内の注意書きにも、英語・スペイン語・中国語のほかに、ベトナム語があった。

 サンフランシスコにやってきて、アジア系がとても多いことはすぐにわかった。それも中国系に限らず、中国系以外のアジア系も多いことも。だがベトナム系が多いことまではわからなかった。ベトナム系といえばボートピープルを連想するが、そのころの移民が中心なのだろうか。

 おそらく、ベトナム系の仕事場は、アジア系の中でも底辺的なところが多く、工場現場、ビル清掃、レストランの片づけなどが中心だろう。それでも、第2世代ではシリコンバレーの最先端企業に仕事を持つ人も増えてきているのじゃないだろうか。

 15分ほどでジャパンタウンに到着。このすぐ近くに日本町があるというのだ。

 ここで道を間違えてしまい、日本町へは少し遠回りしてしまったが何とか行きつくことができた。

最初は、ジャパンタウンにある日本食レストランで昼食をとろうと思っていた。

 ところが、あまり食欲をそそるものがなく、食事場所探しながらうろうろしていたら、NINJA MARKETという日本の食料品専門店を見つけたので入店してみた。

 日本のスーパーかと思う品揃えだ。

 ただ、値段のほうは日本に比べて3割くらい高めのように思った。ここで弁当か寿司を買って、歩道にあるベンチで食べることにしようと思いついた。なかなかの品ぞろえで選ぶに迷う。

 結局、まだ食べたことのないカリフォルニアロールにした。レジ係はヒスパニック系であったが、日本語をきちんと話し、日本と同じように箸がいるかとか聞いてくれた。

 日本人は多いことは多いけれども、半分以上は日本人以外。またこういう店でも、クレジットカードで払うのが一般的なようだ。

 カリフォルニアロールは海外ではよく見かけるが、日本ではなかなか食べられないので、まさにカリフォルニアにきているので食べようと思ったわけ。

 この店のカリフォルニアロールは、海苔を裏巻きにしてあり、外にはゴマがつけてある。中の具は、アボガドとツナであった。

 まずくはないが、普通の寿司のほうがいいかなと思った。

 路面電車の停留所で2つ分、1kmほどを戻り、サンタクララという停留所からバスに乗ることにした。本当は、サンノゼのダウンタウンまで戻って、ぶらぶらしたかったのだが、疲れてきたので、ダウンタウンはパス。 

 

 

 

 

 

 

 

 VTAバスの180番は、BARTのフリーモントに行く急行バス。30分に1本の割合で出ている。180番は週末の運行で、平日は181番。経路が微妙に違うようだ。

 このバスは40kmほどを50分かけて走った。サンタクララを出て2,3の停留所に止まったあとは、ハイウェーを走るので快適だ。目的地の近くで一般道に下りて、いくつかの停留所に止まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 右は180番バスの車内。

 米国の公共機関の運賃は高めに思ったが、このバスは$1.25で乗り甲斐のあるバスだった。

 BARTはフリーモントから南進し、サンノゼに至るルートを建設中だ。途中駅まではできているので区間開業するかもしれない。サンノゼに至ると、カルトレインの電化計画と合わせてベイエリアの公共機関がきわめて便利になる。

 フリーモント発のBARTには2つの系統があって、サンフランシスコ都心部を経てデーリーシティに行くものと、サンフランシスコには行かずバークレイ方面に向かうリットモンド行きがある。たまたまリットモンド行きだったので、途中のベイフェアで乗り換えが必要だった。

 左は、フリーモント駅の高架ホームから見た駅前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右は、乗り換えのため待ったベイフェア駅の高架ホームからの眺め。

 ホテル最寄りはパウエルだが、1駅先のシビックセンターまで乗った。




 

 

 

 

 

 

 

 

地上に出て、はじめて右のような公衆トイレに入った。予想したほどの汚さじゃなくよかった。

 この巨大な建物はサンフランシスコ市庁舎。どこかで見たことがあるなと思ったら、行ってはいないが、ワシントンの連邦議事堂をモデルにしたそうだ。

 平日なら20時まで中に入ることができるのだが、この日は日曜でダメ。またの機会にとっておこう。

 

 

 次に、オペラハウスへ。

 ここは1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が結ばれたところである。この条約によって、連合国(中華民国と旧ソ連は参加せず)は日本の主権を認めた。日本の代表は、当時の首相、吉田茂であった。

 同じ日に日米安全保障条約が結ばれているが、ここではなく、郊外の陸軍基地に場所を移して結ばれている。

 オペラハウスに隣接して、ほとんど同じ外観のビルがある。これは退役軍人ビルで、ここにもホールがあり、催事が行われているようだ。

 ここは1945年6月26日に、国連創設を前に50カ国の代表が集まって、国連憲章に署名をしたところである。

 この2つの建物がほとんど同じなのは、1932年にアーサー・ブラウン・ジュニアが同時に建築しているからだ。

 

 このあと、サンフランシスコにもジャパンタウンがあるので、足を伸ばそうと思っていたのだが、18時前になり、夕食に向かおうと、パスした。

 ストリートカーの「F」に乗って、1日目と同じくフィッシャーマンズワーフに向かった。やってきたのは、かつてミラノで走っていた電車。

 

 

 

 

 

 

 

ミラノで走っていた当時とほとんど同じ状態で走っている。だから、出口のところには、USTITAと書かれたままだ。

 この日もピア39でほとんどの客が下車したが、そのままもう少し先まで乗った。

 フィッシャーマンズワーフの中心の一角に、海鮮レストランと屋台が密集している一角がある。レストランの入口の前に屋台が並んでいるのだ。

 夕食タイムにかかってきたころで、大賑わいである。

 この日は、普通のレストランに入ろうと思ってやってきた。入ったのは、「SABELLA & LA TORRE」という店。

 

 飲み物は、米国のビール、サミュエル・アダムス。

 パンとクラムチャウダーをまずいただいた。

 メインでいただいたのは、SHELL FISH COMBO。

 茹でたカニとエビ、生のカキとハマグリの盛り合わせだ。

 とても美味しく、言うことなしでした。

 食後はケーブルカーのハイド線の乗場まで歩いて乗車。夜だというのに、少し待たされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕食は、本当は追加でもう一品注文したかったのだが、上の分だけで$30ほどになっていたので、追加はとりやめた。でも、まだ食べたらなかったので、帰り道にカップラーメンを買って帰り、部屋で湯を沸かして食べた。これで2日目が終了。

 

 

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