5 日 目 鉱山跡と高炉跡を見学
鉱山跡と釜石鉱山事務所 |
ホテルの窓からは港の方向が見えた。埠頭は見えないが、水色の建物は日本製鉄の建物。壁面には「NIPPON
STEEL がんばろう釜石!」とある。 写真の真ん中に左右に高架道路のようなものが見えるが、これは道路ではない。水色の建物で積み下ろした石炭を工場へ運ぶコンベア。石炭は、昔は高炉で使ったが、今は発電で使う。 |
朝食は和定食だった。ビジネスホテルとしては、割といい朝食ではないだろうか。 |
この日は、午前はJRで陸中大橋に向かい、鉱山跡と釜石鉱山事務所を見る。午後は、予約制のバスで橋野鉄鉱山に向かう予定だ。 まずは、JRの釜石駅へ。三陸鉄道より立派だが、本数はJRの方が少ない。 |
列車は、気動車1両。ローカル線では、JRも1両化とワンマン化がすすんでいる。 下左 車内。自分以外には2、3人の乗車。 下右 20分ほどで陸中大橋に到着。陸中大橋という橋があるのかと思っていたのだが、陸中にある大橋という地名だ。 |
陸中大橋に到着した列車。ホームが1面で、その両側に線路がある無人駅だ。 |
駅の出口のアーチ。 ホームの向こう側には2階建ての建造物の骨組みが残っている。ホッパーが設置されていた建物の跡だ。 ホッパーは、上から鉱石を貨車に積み込むための施設。 |
上左 陸中大橋駅を出るとすぐにトンネルがある。 上右 このトンネルだが、途中で大きくカーブし、トンネルを出ると、陸中大橋駅を下に見る高い位置に達する。いわば”半ループ”だ。 左 駅を出て鉱山跡に向かう。途中、「購買会」の跡地があった。鉱山労働者らが使う商店だった。 |
病院跡。広い草地になっていた。 |
社宅跡。こちらも草地になっていた。 |
釜石鉱山跡に到着。古代遺跡のような光景が広がっていた。 |
鉱山跡は少し離れた場所までしか入れなかった。 |
釜石鉱山事務所。 写真の左手に鉱山跡が広がっている。玄関は右端の裏手側。 |
事務所の玄関。 |
玄関を入ったところで、入場料を払い、中へ。 1階は広い部屋があり、机上には昔の事務用品などが置いてあった。 |
往時の陸中大橋駅のホッパー。 |
平成初めころの、釜石鉱山を描いた絵画。かつては建物の中に鉱山の入口があったようだ。 鉄鉱の採掘は1993年で終え、その後、2000年に石灰の採掘も終了。現在は、ミネラルウォーターのくみだしをしている。 |
玄関わきにあった自動販売機で、かつての坑道でくんでいるミネラルウォーター「仙人秘水」を買って飲んだ。 製造所は、釜石鉱山株式会社だった。 |
玄関のそばに、大橋高炉跡の碑があった。 ここは世界遺産になった橋野高炉よりも古く、日本最初の高炉といわれる。しかし痕跡も残っていないので、一部が残る橋野高炉が世界遺産になった。 大橋は高炉が廃止されたあとは鉱山としての歴史を歩んだ。 |
トンネルの入口の上部から陸中大橋駅を望む。 下左 トンネルから出てきた釜石行き。これに乗って釜石に戻った。 下右 釜石では、つぎに乗車する橋野に向かうバスの出発までの時間が短かったので、駅の売店でおにぎりを買って昼食にした。 |
世界遺産 橋野鉄鉱山 |
世界遺産の橋野鉄鉱山へのバスは、岩手旅行社がツアー形式で出しているもの。事前に電話予約が必要。春から秋の土日に運行。 下左 出発すると、ビデオで橋野鉄鉱山の概要が流される。客は自分以外に1人だったが、鵜住居で1人増えた。ドライバーによると、この日は極端に客が少ないという。 下右 40分ほどの乗車で橋野鉄鉱山に到着。まずは、インフォメーションセンターへ。 |
上左 ビジターセンターでは、ガイドと合流。さきほどとは別のビデオを見た後、館内を見学。 写真は高炉の模型。縦長の高炉の周囲には石組がある、水車でふいごを動かし、高炉の火に風を送った。これらは、木製の建屋の中にあった。 上右 バスに乗車して、300mほど離れた高炉のあるエリアへ。100mほど歩くと、一番高炉があった。 左 水車を動かした水路の跡。小さな小川の跡でしかないが、高炉があった当時は水車を動かせる水量があったという。 |
二番高炉。この石組の中に高炉が建っていた。また、石組を木製の建屋が囲っていた。 高炉の設計は森岡藩士の大島高任がオランダ書を研究して行ったが、建屋は当時の日本の家屋であったのが特徴。 1858年に開設されたが、大橋の高炉は1857年に操業を開始した。大橋には石組などが残っていないので、遺構が残っているものとして日本最古の高炉として、ここが世界遺産になった。ここは1895年まで操業し、以後は、日本製鉄の現在の用地で操業されている。なお大橋は1875年まで操業された。 |
種砕水車場。「種」とは鉄鉱石のこと。鉄鉱石を水力によって、細かく割っていた場所。 なお、鉄鉱石の鉱山と運搬路も世界遺産になっているのだが、これらは公開されていない。公開されているのは高炉のあるエリアだけなので、世界遺産の名前が「橋野鉄鉱山」となっているのには違和感を感じる。 |
三番高炉。 三番高炉のすぐ近くには、製造された鉄鋼を役人が調べたり、賃金を払ったりするための事務所である「御日払所」の跡があった。 |
高炉の仕組みの解説板。高炉を石組が取り囲み、箱型のふいごで風を炉に送っていることや、これらの周囲を木製の建屋で囲っていたことがわかる。 |
安全祈願のための神社も作られた。鳥居の状態がよくないので、きちんと管理しないと壊れるのではないか。 40分ほどで見学を終え、バスに乗車。インフォメーションセンターでガイドを下ろして帰路についた。 |
途中、農産物などの直売所に立ち寄る。 下左・下右 手製の菓子を売っていたので購入。 鵜住居で1人が下車し、釜石駅まで戻った。 |
駅近くの釜石市郷土資料館へ。 太平洋戦争時、釜石は日本本土で最初に艦砲射撃を受けた街だった。太平洋に面することと、鉄鉱石を産することで標的になったのだろう。 艦砲射撃の1回目は1945年7月で、2回目は8月9日の長崎原爆、ソ連参戦の日と同日。2回目の艦砲射撃で製鉄所や中心市街地は更地になったという。ビデオを見て、初めて知った。 |
かつて、釜石駅から中心市街地に向かう途中、川をまたいで、橋上市場があった。 橋にはアーケードがあり、両側には水産物など食料品の店が並んでいた。ここは40年以上前にに歩いていて、よく覚えている。 てっきり、震災で倒壊したのだと思っていたら、違法建築であったりして、2003年に撤去されていたのだった。 |
釜石散歩と夕食 |
駅前に橋上市場の代替として開設された「駅前橋上市場 サン・フィッシュ釜石」があった。震災後、再建されたのかな。 下左 内部。午後の遅い時間だったので、開いている店が少なく、閑散としていた。 下右 駅前広場にある、「復興の鐘」。写真の右上部を見ると、手を合わせているような感じ。 鐘には、鎮魂、復興、記憶、希望と彫られている。 |
上左 大島高任の像。大橋、橋野高炉の設計者。 上右 釜石製鉄所の高炉が閉鎖されたのは1989年。このときの炎を永遠に保存するための記念碑「鉄のモニュメント」。 左 燃え続ける高炉の火。 |
ひょっこりひょうたん島の歌碑。 ひょうたん島のモデルが釜石の北の大槌町の蓬莱島であったことや、釜石には作者井上ひさしの親族が暮らしていて、よく訪問したことから設置されたのだろう。 この碑の左には、被災した釜石小学校の校歌の歌碑があった。 |
ホテルに向かう途中見えた釜石製鉄所内の火力発電所。 かつては同じ場所に高炉があったのだが、24時間、煙を出し続けている点は変わっていない。 現在、釜石製鉄所は。他の工場から運ばれた材料から線材を作る線材製鉄所だが、もっとも利益を得ているのは発電だという。電力は東北電力に卸している。 ここは石炭火力発電だが、バイオマス燃料も多く使い、その割合を増やしている。準バイオマス発電ともいえる。 |
ホテル近くに、イオンタウンがあった。イオンタウンは入店したことがないので、初めて入ってみた。 イオンモールよりはずっと規模が小さく、GMS(総合スーパー)のイオンよりは大きい。イオンモールと同じく、食品スーパーとしてのイオン以外は、テナントが入っていて、小さなイオンモールという感じ。なお、経営母体は、イオンモールではなく、GMSを出店するイオンリテールだ。 |
ホテルに戻って、2時間ほど休憩。 休憩後、夕食に出かける。ホテルの周囲は、チェーン店の居酒屋が多く、避けた。この日は、震災後、小規模な地元の居酒屋や食堂が集まる「かまりば」という一角に出かけてみた。 |
ほどよい客の入り具合の店を探し、「よしよし」という店に入店。 下左 店内。カウンター席が埋まっていたので、テーブルに案内された。 下右 生ビール。 |
手前はお通し。ちくわの穴にきゅうりとチーズを入れたあるものと、なすのおひたし。 向こうは、きのことベーコンのガーリックソテー。 |
遠野ホップのソーセージ。ホップを食べて育っている豚のソーセージ。緑の何かが混じているのもホップだろうか。ビールにとてもよくあうソーセージだ。 下左 マス酒。 下右 釜石の地酒、浜千鳥。 |
上 刺身盛り合わせ。 まだ食べたい気持ちがあったが、ホテルで出るミニラーメンを食べたいので、ここまでにしておく。 左 ホテルに戻り、1時間ほど休憩後、ラーメンをいただきに1階へ。 ラーメンの食券。 |
レストランが会場と書いてあったが、屋台はフロント前に置かれていた。レストランの料理人がラーメンを作るのかと思っていたら、フロントの係員がラーメンをつくっていた。慣れない仕事で大変だろう。 |
量は半玉ほどの麺だった。釜石ラーメンで、魚の出汁がきいた薄い醤油味。 |
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