5 日 目 鉱山跡と高炉跡を見学
鉱山跡と釜石鉱山事務所 |
![]() 写真の真ん中に左右に高架道路のようなものが見えるが、これは道路ではない。水色の建物で積み下ろした石炭を工場へ運ぶコンベア。石炭は、昔は高炉で使ったが、今は発電で使う。 |
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![]() まずは、JRの釜石駅へ。三陸鉄道より立派だが、本数はJRの方が少ない。 |
![]() 下左 車内。自分以外には2、3人の乗車。 下右 20分ほどで陸中大橋に到着。陸中大橋という橋があるのかと思っていたのだが、陸中にある大橋という地名だ。 |
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![]() ホームの向こう側には2階建ての建造物の骨組みが残っている。ホッパーが設置されていた建物の跡だ。 ホッパーは、上から鉱石を貨車に積み込むための施設。 |
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![]() 上右 このトンネルだが、途中で大きくカーブし、トンネルを出ると、陸中大橋駅を下に見る高い位置に達する。いわば”半ループ”だ。 左 駅を出て鉱山跡に向かう。途中、「購買会」の跡地があった。鉱山労働者らが使う商店だった。 |
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![]() 写真の左手に鉱山跡が広がっている。玄関は右端の裏手側。 |
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![]() 1階は広い部屋があり、机上には昔の事務用品などが置いてあった。 |
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![]() 鉄鉱の採掘は1993年で終え、その後、2000年に石灰の採掘も終了。現在は、ミネラルウォーターのくみだしをしている。 |
![]() 製造所は、釜石鉱山株式会社だった。 |
![]() ここは世界遺産になった橋野高炉よりも古く、日本最初の高炉といわれる。しかし痕跡も残っていないので、一部が残る橋野高炉が世界遺産になった。 大橋は高炉が廃止されたあとは鉱山としての歴史を歩んだ。 |
![]() 下左 トンネルから出てきた釜石行き。これに乗って釜石に戻った。 下右 釜石では、つぎに乗車する橋野に向かうバスの出発までの時間が短かったので、駅の売店でおにぎりを買って昼食にした。 |
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世界遺産 橋野鉄鉱山 |
![]() 下左 出発すると、ビデオで橋野鉄鉱山の概要が流される。客は自分以外に1人だったが、鵜住居で1人増えた。ドライバーによると、この日は極端に客が少ないという。 下右 40分ほどの乗車で橋野鉄鉱山に到着。まずは、インフォメーションセンターへ。 |
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![]() 写真は高炉の模型。縦長の高炉の周囲には石組がある、水車でふいごを動かし、高炉の火に風を送った。これらは、木製の建屋の中にあった。 上右 バスに乗車して、300mほど離れた高炉のあるエリアへ。100mほど歩くと、一番高炉があった。 左 水車を動かした水路の跡。小さな小川の跡でしかないが、高炉があった当時は水車を動かせる水量があったという。 |
![]() 高炉の設計は森岡藩士の大島高任がオランダ書を研究して行ったが、建屋は当時の日本の家屋であったのが特徴。 1858年に開設されたが、大橋の高炉は1857年に操業を開始した。大橋には石組などが残っていないので、遺構が残っているものとして日本最古の高炉として、ここが世界遺産になった。ここは1895年まで操業し、以後は、日本製鉄の現在の用地で操業されている。なお大橋は1875年まで操業された。 |
![]() なお、鉄鉱石の鉱山と運搬路も世界遺産になっているのだが、これらは公開されていない。公開されているのは高炉のあるエリアだけなので、世界遺産の名前が「橋野鉄鉱山」となっているのには違和感を感じる。 |
![]() 三番高炉のすぐ近くには、製造された鉄鋼を役人が調べたり、賃金を払ったりするための事務所である「御日払所」の跡があった。 |
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![]() 40分ほどで見学を終え、バスに乗車。インフォメーションセンターでガイドを下ろして帰路についた。 |
![]() 下左・下右 手製の菓子を売っていたので購入。 鵜住居で1人が下車し、釜石駅まで戻った。 |
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![]() 太平洋戦争時、釜石は日本本土で最初に艦砲射撃を受けた街だった。太平洋に面することと、鉄鉱石を産することで標的になったのだろう。 艦砲射撃の1回目は1945年7月で、2回目は8月9日の長崎原爆、ソ連参戦の日と同日。2回目の艦砲射撃で製鉄所や中心市街地は更地になったという。ビデオを見て、初めて知った。 |
![]() 橋にはアーケードがあり、両側には水産物など食料品の店が並んでいた。ここは40年以上前にに歩いていて、よく覚えている。 てっきり、震災で倒壊したのだと思っていたら、違法建築であったりして、2003年に撤去されていたのだった。 |
釜石散歩と夕食 |
![]() 下左 内部。午後の遅い時間だったので、開いている店が少なく、閑散としていた。 下右 駅前広場にある、「復興の鐘」。写真の右上部を見ると、手を合わせているような感じ。 鐘には、鎮魂、復興、記憶、希望と彫られている。 |
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![]() 上右 釜石製鉄所の高炉が閉鎖されたのは1989年。このときの炎を永遠に保存するための記念碑「鉄のモニュメント」。 左 燃え続ける高炉の火。 |
![]() ひょうたん島のモデルが釜石の北の大槌町の蓬莱島であったことや、釜石には作者井上ひさしの親族が暮らしていて、よく訪問したことから設置されたのだろう。 この碑の左には、被災した釜石小学校の校歌の歌碑があった。 |
![]() かつては同じ場所に高炉があったのだが、24時間、煙を出し続けている点は変わっていない。 現在、釜石製鉄所は。他の工場から運ばれた材料から線材を作る線材製鉄所だが、もっとも利益を得ているのは発電だという。電力は東北電力に卸している。 ここは石炭火力発電だが、バイオマス燃料も多く使い、その割合を増やしている。準バイオマス発電ともいえる。 |
![]() イオンモールよりはずっと規模が小さく、GMS(総合スーパー)のイオンよりは大きい。イオンモールと同じく、食品スーパーとしてのイオン以外は、テナントが入っていて、小さなイオンモールという感じ。なお、経営母体は、イオンモールではなく、GMSを出店するイオンリテールだ。 |
![]() 休憩後、夕食に出かける。ホテルの周囲は、チェーン店の居酒屋が多く、避けた。この日は、震災後、小規模な地元の居酒屋や食堂が集まる「かまりば」という一角に出かけてみた。 |
![]() 下左 店内。カウンター席が埋まっていたので、テーブルに案内された。 下右 生ビール。 |
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![]() 向こうは、きのことベーコンのガーリックソテー。 |
![]() 下左 マス酒。 下右 釜石の地酒、浜千鳥。 |
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![]() まだ食べたい気持ちがあったが、ホテルで出るミニラーメンを食べたいので、ここまでにしておく。 左 ホテルに戻り、1時間ほど休憩後、ラーメンをいただきに1階へ。 ラーメンの食券。 |
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