6 日 目 壱 岐 の 西 側
黒崎砲台と猿岩 |
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![]() 食後すぐに出発。郷ノ浦本町のバス停で1日券を買っておこうとしたが、切符売場がまだ開いておらず、車内で購入。 |
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![]() 上右 8時15分に黒崎入口で下車。中学生はまだ先へ行くようだ。 左 バス停からは岬の先端に向かって歩く。両側が複雑に出入りしていて、左側に海が見えたかと思うと、少し歩くと右側に海が見えたりする。 |
![]() この写真のすぐ右手が黒崎砲台だった。バス停から約30分。 |
![]() 手前にある砲弾は、左がこの砲台のもの。右が戦艦大和の主砲のもの。 |
![]() ここの砲台は、ワシントン軍縮会議で廃棄が決まった戦艦「土佐」の主砲が使われたという。そして、”東洋一”と書いてある。豊砲台とどちらが大きのいのか気になったが、砲身がどちらも18mであるので、ほぼ同程度であったといえるだろう。 |
![]() 2005年の福岡市西方沖地震で天井や壁にひび割れができて危険なため立入禁止だという。福岡では過去最大の地震だったが、すでに長期間放置されているので、当面は入れないだろう。 、これを見て、砲台から去ったのだが、あとでミスに気づいた。外に階段があって、砲台の上部に行けることが、観光用のHPを見てわかったのだ。上部には大きな穴が開いている。豊砲台と同じような穴なので、想像できるけど、残念だった。 |
![]() 確かに猿の横を向いた姿に見える。目、鼻、口までそろっている。 |
![]() 下 展望台にあがってみた。猿岩は木々の陰に隠れてしまっているのだが、その先にある岩や湾がきれいだ。 |
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![]() 下左 来た道を引き返し、黒崎入口から10時17分発のバスに乗車。 下右 10時23分、国民宿舎前で下車。これから向かう平山旅館で入浴後、昼食は国民宿舎でとるつもりをしていた。 |
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湯ノ本温泉の平山旅館で入浴と島茶漬け |
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![]() 下左 宿泊客はチェックアウトして、1人でのんびり入浴できた。 下右 室内も浴槽も木の香りのする風呂。お湯は同じだった。 |
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![]() 上右 ソテツの木もあって南国気分。 左 1時間少し入浴し、食事処へ。 宿泊客もここで夕食をとるのかな。 |
![]() もともとは、まかない料理だったのを商品化。人気が出て、JAL国際線のファーストクラスで出されたこともあるという。旅行から帰ってから、通販の人気商品になっていることを知った。 1500円(入浴だけなら500円)払ってバス停に向かった。途中、何軒かの旅館があった。ひなびた温泉地という感じ。 下左 「湯ノ本」バス停。 下右 バス停付近は湾の奥だった。12時29分の勝本行きバスに乗車。 |
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諏訪大社の”御柱”がある壱岐の勝本城 |
![]() 壱岐の北部にある勝本城跡に向かうつもりだったが、下調べでは、ルートが複数あって、どこから上がるのが適当なのかよくわからなかった。 車窓から見ていたら、城山バス停から車道が城跡に向かっているのが見えたので、急いで上がるのを決めて、あわてて下車した。 あとでわかったのだが、このあとバスは坂道を下り、海岸に至るので、城山で下車すると、中腹まで上ったところから上がることになるので正解であった。 |
![]() 下 案内板があった。 ・この柱は、諏訪大社の御柱で、平成28年の大祭で役目を終えたもの。 ・諏訪市と壱岐市は姉妹都市で、御柱は諏訪市から壱岐市に贈られた。 ・曽良は、諏訪で出生、壱岐で死亡した関係で姉妹都市になった。 別の場所の説明で、もともとは勝本町と諏訪市が姉妹都市だったが、合併のため壱岐市が引き継いだ。 |
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![]() 上右 御柱があったのは二の丸で、本丸があった城山公園へはさらに階段を上がる。 左 城山公園。勝本城は秀吉が朝鮮出兵の際に築かせた城だ。 鳥居が見えるが、朝鮮出兵の戦勝祈願でつくられた城山稲荷。建て替えが行われているが、いまも現役の神社である。 |
![]() 対馬厳原の清水山城よりはかなり低いし、登山道が整備されていて上がりやすい。 稲荷参拝の人や御柱を見るために上る人がいるからだろう。 |
![]() 河合曽良は、諏訪に生まれたが、その後、松尾芭蕉に入門。芭蕉の「奥の細道」の旅に同行したことで有名。 曽良は巡見使(将軍の代替わりのときに、地方に派遣されて、大名監視のために調査を行った)随員として九州を視察した。そして壱岐を視察後、体調を崩して、対馬に向かう本隊から離れて壱岐にとどまった。壱岐では中藤家にとどまったのだが、墓は中藤家の墓地の中にあった。 写真で、墓の後にたっているのは、300年忌の記念碑。没後300年というと2010年ごろだ。 |
![]() 下左 平地に下りると鮮魚店が並ぶ路地があったが、どこも閉まっていた。勝本朝市が有名なのだが、すでに13時を回っていて、遅すぎるようだ。 下右 商店街を通り、港に向かう。 |
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![]() 下左 勝本城跡がある城山。太陽のため、よくわからなかった。 下右 14時発の郷ノ浦行きに乗車。 |
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壱岐の最高峰「岳ノ辻」に登頂 |
![]() 途中、山乃守酒造の醸造所があった。見学コースがあるのではと思って入口へ。確かに見学コースがあったが、感染対策で見学中止だった。 |
![]() 下 「登山口」バス停から車道を上がる。玄海酒造の工場が左手に良く見える。このあと、森の中をだらだら25分ほど歩いた。 |
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![]() 標高213mだが、壱岐の最高峰だ。もっとも、峰というよりは、数あるなだらかな丘の中で、ここが一番高いという感じだ。 |
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![]() わずかの上りで最高峰に達することができ、周囲は低い丘陵だ。壱岐は高い山がない島だということがよくわかる。 |
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![]() 現存する「緯度測定標」は、ここのほか、馬渡島(佐賀県唐津市に属し、ここからも見えると案内板にあったがこの日は見えなかった)に残るだけだという。 上右 「緯度測定標」の文字が彫られている。 左 木標を拡大。 |
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![]() 写真手前のドーナツ型のものは、古代の「烽火台」を復元したもの。ここの見張り所で異変に気づいたときには、煙を上げて、下界へ危険を知らせたのだろう。 |
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「春一番」発祥の地 |
![]() 約35分で郷ノ浦大橋。途中で、壱岐オリーブ園があり、入場して休憩しようかと思ったが、17時すぎに日没があるので、立ち寄らなかった。 |
![]() 下 橋を渡り終え、階段で海水面まで下り、港の先端に向かった。写真の右の建物が郷ノ浦港ターミナル。 |
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![]() 橋からここまで15分。団地入口でバスを下車した後、岳ノ辻展望台をへてここまで、2時間弱歩いた。8kmほど。壱岐の2日間で25qほど歩いた。 |
![]() 1859年旧暦2月13日(新暦3月17日)、郷ノ浦のほとんどの漁船がタイ漁に出た。漁を始めたとき、黒雲が現れ、猛烈な嵐になった。53人の漁民が海中に消えていった。 壱岐では昔から春の強い南風は「春一番」といって恐れられていたが、遭難後、遭難日に犠牲者の御霊を慰め、海の安全を祈願する行事が続けられている。 「春一番」は壱岐で使われていた語だったが、気象用語として初めて使われたのが1956年、壱岐を調査した宮本常一が俳句の季語として紹介したのが1959年。その後、マスコミでとりあげられ有名になったようだ。 そして1976年、キャンディーズのヒット曲「春一番」で一般化。曲によって温和なイメージの語感で普及したが、本来は怖い気象現象だった。 下 「春一番発祥の地」の文字の横には遭難をイメージした絵が描かれている。 |
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![]() 上右 慰霊碑の横の高台に上る階段があり、上がると「春一番の塔」がある。1987年に建てられたもの。そばの案内板に「春一番」の語の説明が書かれている。 左 ちょうど日の入だった。玄界灘に沈む太陽を見ることができた。 |
![]() 夕食に向かったのは「味よし」。 |
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![]() 下左 麦焼酎「山乃守」。醸造元は、数時間前に蔵まで行ったばかりの山乃守酒造。 下右 麦焼酎「ちんぐ」。醸造元は重家酒造。2019年のG20大阪サミットで出された焼酎がこれだというので注文してみた。チングは韓国語で友達という意味。 |
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![]() 壱岐名物では壱岐牛を食べていなかったので注文。これも美味しかったのだが、焼酎を飲みながら食べていると、冷めてしまったのが難だった。 |
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