6 日 目   壱 岐 の 西 側 

黒崎砲台と猿岩
 7時すぎ、ロビーの一角を利用している朝食会場へ。1つのテーブルには斜めに2人が座るようにしてある。
 
 前日に洋食か和食かをフロントで伝えて食券をもらっておく仕組みだったが、和食にした。玉子焼きがハート形なのがわかるだろうか。

 食後すぐに出発。郷ノ浦本町のバス停で1日券を買っておこうとしたが、切符売場がまだ開いておらず、車内で購入。
 
 上左   7時55分発の勝本行きのバスに乗車。この日は日曜日で地元中学生のグループ10人ほどが乗車し、にぎやかだ。事前に1日券をまとめて購入していたようだ。

 上右   8時15分に黒崎入口で下車。中学生はまだ先へ行くようだ。

 左   バス停からは岬の先端に向かって歩く。両側が複雑に出入りしていて、左側に海が見えたかと思うと、少し歩くと右側に海が見えたりする。
 
 猿岩と黒崎砲台の位置関係がよくわからないまま歩いて行ったのだが、猿岩へ向かう道の途中に黒崎砲台があった。

 この写真のすぐ右手が黒崎砲台だった。バス停から約30分。
 
 黒崎砲台の入口。

 手前にある砲弾は、左がこの砲台のもの。右が戦艦大和の主砲のもの。
 
 かつて砲台の内部構造のイラストが描かれていた。対馬の豊砲台では、大きな穴の中がどうなっていたのかわからなかったが、この図でよくわかった。

 ここの砲台は、ワシントン軍縮会議で廃棄が決まった戦艦「土佐」の主砲が使われたという。そして、”東洋一”と書いてある。豊砲台とどちらが大きのいのか気になったが、砲身がどちらも18mであるので、ほぼ同程度であったといえるだろう。
 数m入ると、立入禁止になっていた。

 2005年の福岡市西方沖地震で天井や壁にひび割れができて危険なため立入禁止だという。福岡では過去最大の地震だったが、すでに長期間放置されているので、当面は入れないだろう。

、これを見て、砲台から去ったのだが、あとでミスに気づいた。外に階段があって、砲台の上部に行けることが、観光用のHPを見てわかったのだ。上部には大きな穴が開いている。豊砲台と同じような穴なので、想像できるけど、残念だった。
 砲台から2、3分で猿岩の駐車場に到着。

 確かに猿の横を向いた姿に見える。目、鼻、口までそろっている。
 
 顔を正面から見えるところへ移動。こちらも、猿が口をとがたせている姿に見える。

 下   展望台にあがってみた。猿岩は木々の陰に隠れてしまっているのだが、その先にある岩や湾がきれいだ。
 
 
 展望台の足元に、建物の跡が残っていた。砲台だろうか。戦争関連のような感じがするが、案内はなくわからなかった。

 下左   来た道を引き返し、黒崎入口から10時17分発のバスに乗車。

 下右   10時23分、国民宿舎前で下車。これから向かう平山旅館で入浴後、昼食は国民宿舎でとるつもりをしていた。

 
湯ノ本温泉の平山旅館で入浴と島茶漬け
 少し歩くと「奥壱岐の千年湯 平山旅館」の表示があった。そばに「温泉入浴&島茶漬けのセット」の立看板があり、島茶漬けを昼食にすることにした。
 
 階段を下りていき、玄関へ。「日本秘湯を守る会」の提灯がかかっている。
 フロントで入浴と島茶漬けとセットを申し出るとOKで、すぐに風呂へ。
 
 お湯は茶色く濁っている。鉄分が混じっているため。そして塩分濃度が海水と同じ塩湯温泉。少し口に含むと確かに塩辛い。
 
 やや熱めの湯だが、熱すぎることはなく、気持ちよく入浴。

 下左   宿泊客はチェックアウトして、1人でのんびり入浴できた。

 下右   室内も浴槽も木の香りのする風呂。お湯は同じだった。
 
 
 
 上左   露天風呂。こちらも入浴。12月とはいえ、寒くなくてよかった。

 上右   ソテツの木もあって南国気分。

 左   1時間少し入浴し、食事処へ。

 宿泊客もここで夕食をとるのかな。
 島茶漬け。鯛、かんぱちをタレにつけたものに出汁をかけたご飯。

 もともとは、まかない料理だったのを商品化。人気が出て、JAL国際線のファーストクラスで出されたこともあるという。旅行から帰ってから、通販の人気商品になっていることを知った。

 1500円(入浴だけなら500円)払ってバス停に向かった。途中、何軒かの旅館があった。ひなびた温泉地という感じ。 

 下左   「湯ノ本」バス停。

 下右   バス停付近は湾の奥だった。12時29分の勝本行きバスに乗車。

 
 
諏訪大社の”御柱”がある壱岐の勝本城
 バスを城山で下車。

 壱岐の北部にある勝本城跡に向かうつもりだったが、下調べでは、ルートが複数あって、どこから上がるのが適当なのかよくわからなかった。

 車窓から見ていたら、城山バス停から車道が城跡に向かっているのが見えたので、急いで上がるのを決めて、あわてて下車した。

 あとでわかったのだが、このあとバスは坂道を下り、海岸に至るので、城山で下車すると、中腹まで上ったところから上がることになるので正解であった。
 車道を上がると、突然、トーテムポールのように棒がたっているのが見えた。何だろうって思い、近付いた。

 下   案内板があった。

・この柱は、諏訪大社の御柱で、平成28年の大祭で役目を終えたもの。

・諏訪市と壱岐市は姉妹都市で、御柱は諏訪市から壱岐市に贈られた。

・曽良は、諏訪で出生、壱岐で死亡した関係で姉妹都市になった。

別の場所の説明で、もともとは勝本町と諏訪市が姉妹都市だったが、合併のため壱岐市が引き継いだ。
 
 
 
 上左   諏訪大社は行ったことがなく、御柱を見るのは初めて。直近で見ることができてよかった。

 上右   御柱があったのは二の丸で、本丸があった城山公園へはさらに階段を上がる。

 左   城山公園。勝本城は秀吉が朝鮮出兵の際に築かせた城だ。

 鳥居が見えるが、朝鮮出兵の戦勝祈願でつくられた城山稲荷。建て替えが行われているが、いまも現役の神社である。
 
 城山公園からの眺め。

 対馬厳原の清水山城よりはかなり低いし、登山道が整備されていて上がりやすい。

 稲荷参拝の人や御柱を見るために上る人がいるからだろう。
 
 勝本の集落に下りる途中に曽良の墓があった。

 河合曽良は、諏訪に生まれたが、その後、松尾芭蕉に入門。芭蕉の「奥の細道」の旅に同行したことで有名。

 曽良は巡見使(将軍の代替わりのときに、地方に派遣されて、大名監視のために調査を行った)随員として九州を視察した。そして壱岐を視察後、体調を崩して、対馬に向かう本隊から離れて壱岐にとどまった。壱岐では中藤家にとどまったのだが、墓は中藤家の墓地の中にあった。

 写真で、墓の後にたっているのは、300年忌の記念碑。没後300年というと2010年ごろだ。
 
  曽良の墓の付近から見た勝本の集落。港を取り囲んでいる感じ。

 下左   平地に下りると鮮魚店が並ぶ路地があったが、どこも閉まっていた。勝本朝市が有名なのだが、すでに13時を回っていて、遅すぎるようだ。

 下右   商店街を通り、港に向かう。
 
 
 勝本港。4〜11月なら辰の島への船がでていて、行ってみたかった。ビーチがきれいなようだ。運航停止になって1週間後だったので、少し残念。

 下左   勝本城跡がある城山。太陽のため、よくわからなかった。

 下右   14時発の郷ノ浦行きに乗車。
 
壱岐の最高峰「岳ノ辻」に登頂
 団地入口で下車。岳ノ辻(たけのつじ)へは登山口で下車するのが一番近いのだが、郷ノ浦に戻ってしばらく待って乗り換えになるので、団地入口から登山口まで1kmほど余計に歩くことにした。

 途中、山乃守酒造の醸造所があった。見学コースがあるのではと思って入口へ。確かに見学コースがあったが、感染対策で見学中止だった。
 
 登山口に到達。上り坂に入る前に、すぐ近くにあった玄海酒造へ。写真の蔵が焼酎資料館だったが、見学中止だった。

 下   「登山口」バス停から車道を上がる。玄海酒造の工場が左手に良く見える。このあと、森の中をだらだら25分ほど歩いた。
 
 
 
 きつい上りもなく、壱岐で最高峰である岳ノ辻(たけのつじ)に到達。頂上には展望台があった。

 標高213mだが、壱岐の最高峰だ。もっとも、峰というよりは、数あるなだらかな丘の中で、ここが一番高いという感じだ。
 
 東北側を見る。左真ん中の建物が一支国博物館。手間の平野が、原ノ辻遺跡がある平野。壱岐で一番広い平野だ。その向こうには、はらほげ地蔵がある八幡集落が見えている。
 
 西北側を見る。海岸が見えるが、出入りの複雑な海岸になっている。

 わずかの上りで最高峰に達することができ、周囲は低い丘陵だ。壱岐は高い山がない島だということがよくわかる。
 
 
 
 上左   標高213mを示す木標の手前にある石標は、1889年に海軍水路部が設置した「緯度測定標」。

 現存する「緯度測定標」は、ここのほか、馬渡島(佐賀県唐津市に属し、ここからも見えると案内板にあったがこの日は見えなかった)に残るだけだという。

 上右   「緯度測定標」の文字が彫られている。

 左   木標を拡大。
 
  尾根伝いに歩く。頂上から少し歩いたところに、送信所があった。
 
 さらに歩くと、別の展望台があった。

 写真手前のドーナツ型のものは、古代の「烽火台」を復元したもの。ここの見張り所で異変に気づいたときには、煙を上げて、下界へ危険を知らせたのだろう。
 
 この展望台からは西側が見渡せる。低い丘陵が広がっているのがわかる。郷ノ浦の郊外の住宅地などが見えている。
 
 岳ノ辻の最南端にある駐車場の一角が展望台になっている。この駐車場をすぎると、やや急な坂道があり、一気に平地に下った。 
 
 郷ノ浦大橋はじめ郷ノ浦の集落がよく見えた。最高峰の展望台からここまで20分ほど。尾根に沿った気持ちいいコースだった。
「春一番」発祥の地
 登山口から展望台へは緩いだらだら上りだったが、南側の駐車場から郷ノ浦側への下りは急な下りだった。逆コースにしなくてよかった。

 約35分で郷ノ浦大橋。途中で、壱岐オリーブ園があり、入場して休憩しようかと思ったが、17時すぎに日没があるので、立ち寄らなかった。
 
 橋の上から湾の奥側を見る。左の茶色い建物が泊っているマリーナホテル。

 下   橋を渡り終え、階段で海水面まで下り、港の先端に向かった。写真の右の建物が郷ノ浦港ターミナル。
 
 
 
 港の先端までやってくると、前日に乗ったジェットフォイルが寄港していた。前日は芦辺に立ち寄ったが、この便は郷ノ浦に立寄る便だ。

 橋からここまで15分。団地入口でバスを下車した後、岳ノ辻展望台をへてここまで、2時間弱歩いた。8kmほど。壱岐の2日間で25qほど歩いた。
 
 港の先端で、船が港から出ていく付近の防波堤に「春一番発祥の地」と書かれている。

 1859年旧暦2月13日(新暦3月17日)、郷ノ浦のほとんどの漁船がタイ漁に出た。漁を始めたとき、黒雲が現れ、猛烈な嵐になった。53人の漁民が海中に消えていった。

 壱岐では昔から春の強い南風は「春一番」といって恐れられていたが、遭難後、遭難日に犠牲者の御霊を慰め、海の安全を祈願する行事が続けられている。

 「春一番」は壱岐で使われていた語だったが、気象用語として初めて使われたのが1956年、壱岐を調査した宮本常一が俳句の季語として紹介したのが1959年。その後、マスコミでとりあげられ有名になったようだ。

 そして1976年、キャンディーズのヒット曲「春一番」で一般化。曲によって温和なイメージの語感で普及したが、本来は怖い気象現象だった。

 下   「春一番発祥の地」の文字の横には遭難をイメージした絵が描かれている。
 
 
 
 
 
 上左    絵の右のほうに一見、墓石のような慰霊碑がある。「五十三淂脱(とくだつ)之塔」とある。遭難後、時期をあけずに建てられたようだ。

 上右   慰霊碑の横の高台に上る階段があり、上がると「春一番の塔」がある。1987年に建てられたもの。そばの案内板に「春一番」の語の説明が書かれている。

 左  ちょうど日の入だった。玄界灘に沈む太陽を見ることができた。
 ホテルに戻り、1時間ほど休憩。

 夕食に向かったのは「味よし」。
 
 店内。座敷席や奥のテーブル席はうまっていて、入口に近いテーブル席に座る。
 
 刺身盛合せ。美味しいのだが、量が多いので1人では飽きてくるのが難。

 下左   麦焼酎「山乃守」。醸造元は、数時間前に蔵まで行ったばかりの山乃守酒造。

 下右   麦焼酎「ちんぐ」。醸造元は重家酒造。2019年のG20大阪サミットで出された焼酎がこれだというので注文してみた。チングは韓国語で友達という意味。
 
 
 
 
 壱岐牛のあぶり焼。

 壱岐名物では壱岐牛を食べていなかったので注文。これも美味しかったのだが、焼酎を飲みながら食べていると、冷めてしまったのが難だった。

 

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