8 日 目   原城跡と火砕流被災地

島原の乱の跡を原城でみる
 7時、ホテルの朝食会場へ。テーブル席だが、入口で履物を脱いで上る。
 
 有名人のサイン色紙がいろいろあった。これは増田明美さんのもの。
 選択はなく、和定食のみ。
 
 午前中は、バスで島原の乱で天草四郎が率いる一揆軍がたてこもった原城へ向かう。

 ホテルそばで、車道に接して島原鉄道の線路があるので、線路わきで気動車を見た。
 
 「商工会議所前」バス停から「加津佐海水浴場前」行きのバスに乗車。

 下左   50分強かかり原城前に到着。

 下右   車道のすぐ近くには、車道と並行してかつて線路だったと思われる道があった。
 
 
 
 上   案内板にあった地図。現在地がバス停。紫点線の内側が原城跡。赤丸が写真撮影地。大きな赤丸が本丸跡。

 左   原城跡は40数年ぶりの訪問だ。前回は島原鉄道で訪問。この写真撮影場所に原城前駅があった。この看板は当時もあった。当時は現在とは違って、未舗装の道を歩いて本丸まで行き、同じ道を引きかえした。
 上左   板倉重昌碑。反乱鎮圧軍の統率のために江戸から派遣されたが戦死。

 上右   大手門付近から外を見る。外側は海になっている。

 左   二の丸。野原になっている。
 
 本丸跡。反乱の鎮圧の後、城の中はすべてが破壊された。城壁もかなり壊されて、二度とこの城が利用されないようにされた。

 
 
 
 上左   天草四郎像。手をあわせて祈る姿。北村西望作。

 上右   礼拝堂があったといわれる付近にたつ十字架。

 左   天草四郎の碑。以前は民家に置かれていたものがここに移された。
 
 低地をこえた向こう側の丘が天草丸。

 城跡を出る。前回訪問時は荒れていたが、現在は遊歩道や案内板が整備されている。世界遺産になったことが大きい。
 
 供養碑。

 島原の乱の鎮圧後、天領になった天草の代官、鈴木重成によって建てられたもの。中学校と神社の境界付近に目立たなく建っていた。
 
 有馬キリシタン遺産記念館。バスの通る車道から15分ほど。

 下左   原城やこの地域のキリシタンについての展示がある。原城は発掘が続けられていて、人骨と共に十字架がでてきたりする。

 下右   「南有馬庁舎前」バス停から島原駅前行きバスに乗車。
 
ぼうじゅうで”ガンバ寿司”や”かんざらし”を食べる
 島原バスターミナルでバスを下車。午後は大火砕流の被災地へ向かうのだが、バスターミナルから1時間30分後のバスに乗るので、その間に昼食。

 向かったのは郷土料理店の「ぼうじゅう」。城をイメージした建物だ。
 
 店の中には細いけれども川があり、水が流されている。この店の付近には湧水があり、道路脇の水路にきれいな水が流れているので、それを屋内でも設置しているようだ。

 カウンター席に着席。あまりイスを後ろに下げると川にはまる(笑)。
 
 ガンバ寿司定食を注文。「ガンバ」とは島原方言でふぐのこと。だから、ふぐ寿司定食だ。ほかに、具雑煮かそうめんがついてくるが具雑煮にした。さらに、デザートでかんざらしがつく。

 40数年前にもガンバは食べていて、”ガンバ=ふぐ”は知っていたが、どんな料理を食べたか忘れてしまった。
 
 具雑煮。

 前日に姫松屋で食べたものは大だったが、こちらは並より小さな「小」。具材は前日と大体同じだが餅が小さな切り餅である点と、鍋の中に入っていて出されたときは見えない点が異なる。味の違いまではわからず、こちらのも美味しい。
 
 ガンバ寿司。

 ふぐの押し寿司。ふぐが白いために見にくいのだが、ふぐは湯引きしたものを薄くスライスしてある。すし飯の中には、梅ぼしをくずしたものとしその葉が入っている。ふぐがあっさりしているので、梅としそに負けてしまっている感じもするが、美味しい。4貫ではちょっと物足りなかった。
 
 かんざらし。

 白玉だんごを甘いシロップにつけたデザート。
 
 いぎりす。

 定食とは別に注文。寒天を固めてスライスしたような感じ。中にはにんじんやしいたけなどが入っている。
 
 「ぼうじゅう」の前の道路には湧水の流れる水路があり、その一部の区間には錦鯉が飼育されていた。 
 
 しまばら湧水館。

 無料休憩所でかんざらしを作る体験が売りもののようだ。面白そうだけど時間がないので見学のみ。 
 
 館内。
 
 四明荘。

 池に面した座敷部屋がある古民家。
 
 門を入ったところにあった湧水。
 
 湧水が池に流されてくる。池では錦鯉が泳ぐ。 
 
 310円の入場料が必要であったが、お茶の接待があり絵はがきがサービスであった。

 食事をして、見学をして、バスターミナルに戻った。
「旧大野木場小学校」と「砂防みらい館」で火砕流跡をみる
 島原バスターミナルから雲仙行きのバスに乗車。

 下左   「道路建設記念碑前」バス停で下車。水無川を渡る橋を越えてすぐのバス停だ。

 下右   バス停の前では、人参の収穫作業が行われていた。この地方の人参は小さく短い品種だ。
 
 
 少し離れたところに、ろくべいさんのゆるキャラ風の像があった。マスクもつけられていて、手にはろくべいの入った丼を持っている。

 下   ろくべいさんの像の下に案内板があって、ろくべいさんについて書かれていた。

 ろくべいさんは深江村の人物だったのだ。水無川を渡った一帯が深江村(現在は南島原市)。

 江戸時代の雲仙普賢岳噴火によって飢饉が起こったが、ろくべいさんはさつまいもで麺をつくり、出汁で食べる方法を考案した。これが郷土料理の「ろくべい」になった。
 
 
 バス停名にもなった道路建設記念碑もあった。読みにくいが「コンクリート舗装 道路改修記念」と彫られている。残念ながらいつのものかはわからなかった。

 
 バス停から旧大野木場小学校までは1kmほど。最初は集落の中の緩い坂道を上がっていく。
 
 火砕流で被災して以来、30年間そのままになっているのではないかと思われる家屋もあった。
 集落が終わったあたりの標識。標識の向こう側では柑橘類の栽培がおこなわれているようだ。このあたりから小学校までは農地の中を通る。
 
 旧大野木場小学校に到着。門扉が赤いのは、火砕流で焼けたため。

 下左   被災した校舎が保存されている。3ヶ月前には東日本大震災のさいに津波で被災した校舎をいくつか見たが、それを思い出した。

 下右   教室内も燃えている。
 
 
 1991(平成3)年6月3日16時8分に発生した火砕流は43人の犠牲者を出した。多くは定点と呼ばれるところにいた報道関係者などだった。

 大野木場小学校は、水無川に沿って流れた火砕流は通らなかった。

 校庭に教職員らしき人が立っている。白丸の部分には校舎から出る生徒も写っている。小学校で犠牲者はなかった。

 この小学校は付近の民家とともに、9月15日の火砕流で全焼した。このときはすでに小学校は使われておらず、付近住民は避難生活をしていて、小学校や地域での人的被害はなかった。
 
 
 上   9月15日の火砕流では火砕流の本体は水無川に沿って流れたが、6月3日の場合とは違って、熱風は水無川から離れて直進したため、小学校や集落を直撃した。

 6月3日場合は、ここで人的被害がなかったのはたまたまだたったといえる。

 左   小学校の左側にある「砂防みらい館」に向かう。
 
  校庭から「砂防みらい館」の地下に入れるようになっている。展示は上の階でなされている。

 正式名は「国土交通省 雲仙復興事務所 大野木場監視所」。平成新山から大野木場までの間で砂防工事が続けられているが、噴火の監視のために設けられた施設。一般向けの展示もおこない、愛称は「砂防みらい館」になっている。
 
  展示は写真が中心だった。

 噴火活動の終わりごろの写真のようだ。土石流の流れた跡がよくわかる。

 山頂からは3つのコースがあるが、「砂防みらい館」付近で合流。少し下ったあたり(バスの通る道路付近)で広い範囲に広がるように流れたことがわかる。
 
 水無川は「砂防みらい館」の少し下流(バスの通る道路付近)で、少し曲がっている。そのため土石流は水無川に沿ってだけじゃなく、川からあふれ出で流れた。

 そのため、土石流のさいには、まっすぐに流れるコースに水を流す工事が行われた。オレンジ色の枠の中を見ると、砂防ダムが、逆「ハ」の字の形で多数が連続してつくられているのがわかる。

 あふれた水や土砂が上流側に出るような構造になっている。流れ出る量を減らし、出ても速度を押さえることができる。「導流堤」という。
 
 上階の窓から見た様子。写真の中央付近の少し高くなってところが、定点とよばれ、報道関係者など多数の犠牲者が出たところ。もう1つ上の階で窓から監視が行われ、異常時に作業員への連絡やリモートでの作業が行われる。

 
 
 
 
 上   窓から見えた、大きな岩だけをせき止め、水や小さな土砂を下流に流すダムを拡大。 「スリットダム」という。

  左   スリットダムを直近で撮影した写真。人の背丈の2倍以上の高さがあるようでびっくりした。
 
 定点と呼ばれる場所。火砕流の様子をここで取材していたが、大火砕流のときには逃げられず犠牲になった。

 
 
  定点には白い三角錐の慰霊碑が建てられている。この地点は、一般人は今も立入禁止。

 下左   平成新山の頂上の様子。

 下右   最高地点の岩。下に作業員が写っている。
 
 
 
 見学を終えたあと、行きと違って、水無川のそばの道を下っていった。途中は無人地帯。

 途中で見た平成新山。現在は雲仙の最高峰は平成新山(1483m)で普賢岳(1359m)よりも高い。雲仙岳の景観も大きき変わったのだろう。
 
 火砕流の最長到達地点。水無川沿いで、バスの通る道よりも少し下流にある。

 日本では明治以降、火砕流の災害が起こっていなかった。一方、土石流は多発していた。被災した報道関係者や消防団員、警察官、それにたまたまその日は熱風がやってこなかった小学校の教職員などは。火砕流がどのようなものかわかっていなかったのだろう。世界的に著名な海外の火山学者も亡くなったが、被害を想定できなかったのだろう。

 自分も、災害後、火砕流の言葉は知ったが、火砕流と土石流の違いがはっきりわかったのは、この旅行で被災地を見てからだ。
 
  下車したバス停まで国道を少し歩き、ろくべいさんのゆるキャラ像をまた見て、島原駅前行きのバスに乗車。
まどかで”ガンバ湯引”や”鯛の塩煮”を食べる
 
 上左   バスターミナルの手前の「桃山」で下車。道路脇を通る島原鉄道を見ながら散歩。

 上右   浜の川湧水へ。4つに分けられた区画があり、食料の洗い場、食器の洗い場などと利用法が1つづつ決まっている。そばに、湧水を利用したかんざらしで有名な銀水という店があったっが、先を急ぐため立ち寄らなかった。

 左   白土(しらち)湖。江戸時代の雲仙噴火の影響でできた湖。湖底に湧水がでている。
 
 島原教会。島原の乱でキリシタンが皆無になった島原では、再布教は1902年からはじまり、いまあるドーム型の教会ができたのは1997年。天正遣欧使節の中浦ジュリアンの像があるというので、行ってみたが閉鎖中だった。
 
 ホテルに戻る途中、サンシャイン中央街にある居酒屋「まどか」へ。前日の昼間にアーケードを歩き、この店を見つけて、やってこようと思っていた。

 商店街の店舗の中に混じっている、ずいぶんとお洒落な店なので、目立ったっていた。
 
 案内されたカウンター席。2人席づつが、布で仕切られている。隣で大声で話していても安心であるのだが、窮屈感が強い。
 
 ガンバ湯引。島原方言ではガンバはふぐ。湯を通した後、氷水で締めてあって、食感がいい。

 下左、下右    冷酒「普賢岳」。醸造所は島原市の「山本本店酒造所」。白土町とあるから、さきほど歩いたばかりの白土湖の近くなのだろう。ならば、敷地内で湧水があり、それを利用と予想。
 
 めんたいこ。

 自家製のたれにつけこんだめんたいこが少し焼かれていて、酒のさかなによかった。
 
 冷酒「横山五十」。

 メニューには長崎とだけ書いてあったので、注文したのだが、ラベルを確かめると、醸造元は壱岐の重家酒造だった。2日前に壱岐で麦焼酎「ちんぐ」を飲んだばかりのびっくりした。清酒も作っていたんだということと、メニューで数少ない長崎産の酒が壱岐産だったことで。
 
 鯛の塩煮。

 メニューに、この店の人気料理とあったので注文した。鯛の切り身が2切入り、美味しく煮込まれていた。初めて食べる料理で鯛をこうして食べる食べ方もあるんだと驚いた。
 
 そうめん。

 島原の乱のあと壊滅的になった島原へは小豆島から移住がすすめられ、小豆島から伝わったといわれている。島原名物のひとつなので注文。

 
 
 そうめんはごく普通のそうめん。温かいものにしてもらった。地方によってはにゅうめんと呼ばれるものだ。
 
 ホテルに戻る途中、島原城のライトアップがきれいに見えた。

 泊まっているホテルは大浴場があるので、入りたかったのだが、前日に引き続き、歩き疲れて眠ってしまい、気づいたときには遅すぎた。

 

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