6 日 目   徳 之 島 の 一 日

徳田虎雄記念館へ
 朝食。和食か洋食かをチェックイン時に聞かれ、一覧表に記入しておく仕組みだった。和食を希望しておいた。

 下左   朝食会場。

 下右   朝食後、平土野(へとの)バス停へ。車庫もある停留所だが、乗車したバスはほかからやってきた。
 
 「徳之島総合陸運」の亀徳行きに乗車。

 徳之島は外周の道路が90qほどあるし、島の中心の亀徳と宿のある平土野の間も30kmある。

 島は3つの町からなり、亀徳を中心とする徳之島町、平土野を中心とする天城町、島の南部を占める伊仙町がある。
 
 
 上左   役場前で下車した。

 上右   徳之島町役場。

 左   生涯教育センターへ。図書館などが入っているが、徳之島町郷土資料館もあったので、入ってみた。内部は撮影できず、入口だけ撮影。
 
 徳之島徳洲会病院。徳洲会の創始者、徳田虎雄さんは徳之島の出身(出生は別だが)で、郷土にも大きな病院を建てた。ここが島で唯一の総合病院。介護事業もグループ企業が広く手掛けていることがみてとれた。
 
 亀徳港を出港していく船があった。マルエーフェリーで、先日、与論から伊延(本来は和泊)まで乗ったのと同じ船のようだ。この便は鹿児島から那覇に向かう途中のようだ。
 
 亀徳港付近では1609年に秋徳湊の戦いがあったという案内板。

 この年以前は、奄美は琉球王国の支配下にあったのだが、薩摩藩が奄美を平定し、支配下に置いた。徳之島でも亀徳港付近で激しい戦闘があったという。
 
 亀徳で一番来たかった「徳田虎雄顕彰記念館」に到着。彼の故郷、徳之島の亀徳の海を見下ろす場所にある。

 徳洲会病院の創始者の徳田虎雄さんには良い印象はもっていなかったが、どういう方なのか知りたくてやってきた。

 下左   玄関横に置かれた徳田虎雄像。

 下右   入館すると1階でビデオを見たあと、彼の人生の展示を見た。2階にあがり、彼が実現しようとした医療改革や政治家としての足跡の展示を見た。

 何人かの人物による徳田さんへの思いを表したビデオがあり、山中伸弥さんのものを見た。もっと見たかったが、時間の関係で無理だった。
 
  見学を終え、自分が徳田虎雄さんに対してもつイメージが少し変わった。

 自分がずっと持っていた思っていたのは、”医は算術”みたいな考えの医者のイメージだった。病院建設地での地元医師会とのトラブルや数々の選挙違反、そして最後に元都知事の猪瀬直樹さんへの賄賂と疑われた資金供与。

 記念館では彼の別の面を知った。弟の死で医師への不信をもち、患者第一の医師になりたくて医師をめざしたこと。医師になったあとの献身的な治療。まず大阪など都市部を中心に病院を建設したが、経営が軌道に乗ると奄美の離島に病院をたて、地域の医療を劇的に改善したこと。まさに、“医は算術”の正反対のことをしていたことも知った。自分のもともと持っていた徳田さんのイメージにはまったく合わない。

 徳之島の小学校では、地域の偉人を知るという授業で、徳田さんのことを学び、記念館を見学する。地域にとっては間違いなく最大の偉人だと思う。
 
 丁寧に展示を見て回り、1時間強を過ごした。

  玄関ロビーに、彼のよく言ったフレーズが掲げられていた。「命だけは平等だ」。彼は、この理想に燃えて、理想を実現した。でも、歯車がどう食い違ったのか、”医は算術”的な面が出てきた。なぜそうなったのだろう、などと思いながら退出した。
 
 徳田虎雄記念館に隣接して、なごみの岬公園がある。

 1944年、亀徳港の沖合で、民間から徴用された「富山丸」が米軍潜水艦の攻撃で沈没し、3700人の兵士が犠牲になった。その慰霊のための公園。
 
 石碑の字は、総理大臣時代の小泉純一郎による。

 彼の親族は、徳之島の飛行場(前日、その滑走路跡の道路を見た)から沖縄へ特攻に飛び立ったことの案内板もそばにもあり、引き受けたのだろう。
 
 この沖合12kmで富山丸が沈没した。3700人というからかなり大きな船で、しかもすし詰めに乗っていたのだろう。
 
 
 上左   昼食は、徳洲会病院近くの「さかなや」という食堂へ。

 上右   店内。

 左   刺身定食をいただいた。
犬田布岬などへ
 犬田布行きバスに乗車。バスの左上に少し見えている建物は徳之島徳洲会病院。

 下左   車内。

 下右   犬田布岬へは、犬田府の1つ手前の岬入口で下りるとよいとドライバーに教えられ、岬入口で下車。

 1時間50分後に平土野行きのバスがあるので、間に合うように3km離れた岬を往復する。その間ときどき傘をさした。
 
 
 犬田布騒動の記念碑。

 1864年、天候が悪く、さとうきびの出来が悪く、砂糖の生産量も少なかった。薩摩藩の役人が、犬田布の農民を捕まえ、砂糖を横流ししているのではないかと問い詰め、拷問を行った。捕まった農民は、ほかの農民たちに助けられ、役人は逃げた。でも、後日、役人は関わった農民を一網打尽にしたという。一種の農民一揆だ。そのことの記念碑。

 1864年といえば、幕末の激動期のまっただなか。薩摩藩は幕府についていたが、やがて倒幕側に回る。そういう時期なのだが、薩摩藩支配下の島ではこういうことがあったのかと驚いた。
 
 犬田布岬への道は平坦だが単調。途中で、野生の百合がところどころに咲いていて楽しませてくれた。
 
 犬田布岬に到着。

 下左   展望台があり、上ってみた。

 下右   展望台からの眺め。
 
 
 犬田布岬からの眺望はすばらしいのだが、もう一つ見たいものがあった。戦艦大和の慰霊碑だ。(正確に言うと、戦艦大和を旗艦とした艦隊の慰霊碑)

 写真は展望台から見た慰霊碑。大和が沈没したのは、徳之島からは遠く離れたところなのだが、沈没する前の通信で、徳之島の北西いう位置の報告があったので、当初は徳之島が沈没位置に最も近い陸地と考えられて、この地に慰霊碑が設けられた。

 その後、沈没現場の調査が行われた結果、一番近い陸地は九州本土の枕崎となり、枕崎にも慰霊碑が設けられた。
 
 
 
 上左   慰霊碑のところには地蔵があった。引き上げられた大和の錨らしきものもあった。

 上右   慰霊碑に書かれていた碑文。題字は「宣仁親王」とあるが、高松宮殿下(昭和天皇の弟)のこと。

 左   バス停に戻る途中に見た漁港。
 
 岬入口から平土野へのバス。
 
 平土野へ着いたあと、海岸沿いに歩いて「犬の門蓋(いんのじょうふた)」に向かった。めがね岩のようなものだった。

 このとき雨が降り、傘をさしての往復だった。このあと、平土野からムシロ瀬を往復しようと、前日にデマンドバスを予約していたが、あきらめ、キャンセルすると電話した。
 
 ムシロ瀬に行くのを断念して何もすることなくなり、いったん宿に戻って一休み。

 2時間ほど休んだあと、宿の近くの居酒屋「一気」へ傘をさして行った。

 下左   店内。

 下右   お通しの「マカロニサラダ。
 
 
 左左、左右   徳之島の奄美酒類製の黒糖焼酎「きらめきの島」。
 
 
 豚じゃぶサラダ。
 
 ラーメン。

 この店は居酒屋であるとともにラーメン屋でもあったので注文してみた。とんこつ味のラーメンだった。

 宿に戻り、この日を終えた。

 

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