3 日 目 中 津 と 青 の 洞 門
朝食はチェックイン時に選んでいた洋食。 |
朝食後、すぐにチェックアウトして小倉駅へ。 8時発の日豊本線の特急「ソニック」大分行きに乗車。中津へ向かう。 下左 乗車したのは"青いソニック”。 下右 入口横の表示。 |
車内。座席の横に飛び出ている握り手が木製、床も木で暖かみを感じる車両。 下左 窓際のテーブルも木製。 下右 中津着。エレベータが階段に並行する斜行エレベータだった。珍しくでびっくり。 |
宿に荷物を預けようと思ったが、駅の北口と南口を間違え、宿まで行く時間がなくなってしまった。荷物はコインロッカーに入れた。 下左 守実温泉行きのバスに乗車。 下右 30分乗車して「青の洞門」で下車。 |
バス停から50mほどで「青の洞門」はあった。 江戸時代に禅海和尚が危険な道を行き来する村人を見て、石工も雇って手掘りでトンネルを掘った。140mのトンネルを含む340mの道路を30年かかって開通させた。通行料をとったので、日本初の有料道路といわれる。 現在は大部分は明治時代に拡幅されていて、車道になっている。ごく一部だが、江戸時代のトンネルが残っている。 |
洞門に入ってすぐ、車道から別れて遊歩道の区間がある。そこは江戸時代の手掘りの状態で残されているようだ。 仏像や石を掘る禅海和尚の石像がおかれている。 |
何か所かの明かり窓も掘られている。ここは最初に掘られた明かり窓。 |
明治時代に拡幅された車道を歩き、1つ目のトンネルから出るところ。この先に短い3つのトンネルが見える。 |
崖下の部分を掘った区間もかなりあった。 |
手掘り洞門の案内があった。階段を下りて、かなり水面に近いところまで行く。そして車道の下をトンネルでくぐって山側へ行くと、昔の洞門が残されている。 |
手掘りの洞門。下が歩きやすいようになっているが、他は昔のままのようだ。 高さが水面に近いので洪水のときには水没したんじゃないかと想像。 |
洞門を見終える。川沿いに禅海和尚の石を掘る像があった。 偶然、これから洞門に入っていく中津行きのバスがやってきた。洞門の区間の車道は1車線で、片側通行になっていて、両側の入口に信号がある。バスは信号で停車中のようだ。 |
さらに少し歩いたところにかかる橋の上から撮影。山は競秀峰という。青の洞門は、写真左端の白い崖のところから左へ続いている。 競秀峰は今でこそハイキングコースだが、洞門ができる以前は村人が洞門の両側を行き来するのに使ったという。 |
これから羅漢寺に向かう。右の看板には、羅漢寺の下に小さく2。3kmと書いてある。これは遊歩道を歩くコースだが、別に車道を歩いても行ける。車道は遠回りで1kmほど余計に歩かねばならないので、遊歩道を歩くことにした。 |
古い神社。左下の石碑には皇紀2600年記念と記されていた。神社のできたのとは別だろうが。 下左 神社近くの郵便ポストはこげ茶色。山里の風景にあうように塗り替えたのだろうか。 下右 幕末の尊王攘夷の思想家、頼山陽の碑があった。ここに立寄ったのだという。墓ではない。墓は京都円山公園の長楽寺にある。 |
遊歩道は川沿いを通るようになった。ところが、通り抜けできないとの看板があった。ずっと先で工事をしているのが見えた。仕方がないので、遠回りだが車道に向かった。 |
車道を歩いていると工事現場があった。中津日田道路の建設中で、ここには「青の洞門・羅漢寺IC」が設置されるのだという。高速道路じゃなく、自動車専用の一般国道のようだ。 |
遊歩道の終点。ここで車道に合流する。こちら側にも、通リ抜けできないという看板があった。 |
羅漢寺の麓に到着。青の洞門を出てから、ちょうど1時間。最初から車道をを歩いていたら。もう少し早くつけたかもしれない。 ここでトイレを使おうとしたら、かなり離れた駐車場まで行かねばならず、それだけで10分ほどかかった。 |
麓から石段や坂道を上ること15分。山門に到着した。 ここからが寺の領域で写真撮影は禁止。 下 (羅漢寺のHPより拝借) 本堂にあたる部分。崖を掘った部分に建物が建っている。2階部分からの眺めはとてもよかった。 山門からここまでは5分ほどだったが、この奥に庭園があり、10分ほどかかった。写真にない五百羅漢などをを入れて、全体を見学するには1時間弱かかった。 |
山門から出た後、上がってきた道に進まず、ロープウェイの駅の方向に進んだ。 これがロープウェイ駅。ここは中間の駅で、さらに山頂に行けるはずなのだが、ロープウェイは運休中だった。この日だけなく、コロナ禍のため、ずっと運休しているのだろう。仕方なく、山門に戻り、下山した。 |
麓に下りた。写真の右端に近い山の中腹に羅漢寺があるのだが、写真ではわからない。写真真ん中の木が欠けているところがロープウェイのルート。本来ならその一番上まで行けるはずだ。 |
上左 道の駅「耶馬トピア」で昼食をとる。 上右 店内。 左 豚ごぼうそば。ごぼうの天ぷらと豚肉が入っている。そばは青の洞門の地元産のものとのこと。 |
中津からあげ。 青の洞門も中津市の範囲に入る。中津にきたからには「中津からあげ」は食べなきゃと思い注文。 「中津からあげ」は、鶏肉をタレに漬け込んでおいて揚げるのが特徴らしい。この店でもそうだった。最初から醤油味がついている。アツアツなので美味しい。 |
上左 道の駅の中にある「耶馬渓風流館」という小さなミュージアムに入った。 上右 羅漢寺の五百羅漢の一部の像などを見た。 左 一番興味深かったのは、旧大分交通耶馬渓線のルート。青の洞門のバス停の手前で川を渡り、対岸を列車が走っている。これを見て、洞門の対岸を歩いてバス停に向かうことにした。 |
洞門の対岸に残る耶馬渓線の線路跡を利用したサイクリングロードを歩いた。 耶馬渓線はほぼ全区間がサイクリングロードになっていて、青の洞門よりもっと奥に行けば、ホーム跡が残されている駅もあるという。 |
サイクリングロードから川向うにある洞門の明かり窓もしっかり確認できた。 |
対岸から鉄道橋がかかっていたあたりには、橋のたもとじゃないかと想像できる箇所もあった。 この先にある道路橋をわたり、バス停に向かった。 |
「青の洞門」バス停から中津行きのバスに乗車。バスの背後に見える道路に入りだした付近に洞門がある。 |
中津駅に戻ってきた。駅前には福沢諭吉像がある。 |
寺町。道に面しているのは寺ばかり。 |
目立つのは赤壁の寺、合元寺。 黒田官兵衛が中津城主になったとき、黒田ともにやってきた空誉上人が開祖。 もともと豊前は宇都宮氏の支配が続いていた。宇都宮鎮房のときに、城主が黒田氏にかわり、鎮房は伊予へ転封を命じられたが拒否し抵抗。 鎮房は中津城で討たれ、合元寺で待機していた家臣たちも討たれた。その際、血が飛びちった壁は、何度ふいても血が浮いてくるので、赤壁にしたとのこと。 |
続いて福沢諭吉の生家。 |
とても広い武家屋敷。 |
福沢諭吉記念館。 内部は撮影禁止。印象に残ったのは、諭吉を描いた1万円札の最初の版と改版されたものの両方、番号が1番である札が保存されていたこと。2番は両方とも慶應義塾に保存されているという。 |
つぎに中津城へ。 |
石垣の造りが途中で変わっているところがある。 右側は黒田氏時代に築かれたものですきまなくびっしりと組まれている。対して左側は細川氏時代にいろいろな形の石をすきまもつくりながら組んでいる。 黒田、細川ともに関ケ原で東軍につき、黒田は福岡藩へ、細川は宮津藩からいずれも加増移封。(細川はその後、熊本藩へ移封。) |
天守の最上階。 下左 中津城の北側の公園の中に大きな石碑があり、諭吉の「独立自尊」が書かれていた。 この近くにあった歴史民俗資料館は月曜日で休館だった。 下右 中津カトリック教会。大分県なので古い歴史があるかとか、黒田官兵衛はキリシタン大名だったので関係があるのかとか思ったが、昭和になっての建築だった。閉鎖されていた。 |
中津城大手門跡。石垣の手前の数mは黒田官兵衛のときに造られたもの。現在は小学校の外壁になっている。 下左 駅近くまで戻ってきた。アーケード街があったが、ほとんどの店が閉まっていた。 下右 駅でロッカーから荷物を出し、この日の宿「ス―パーホテル中津」へ。 |
スーパーホテルは各地にあることは知っていたが、泊まるのは初めてだ。それで、今回初めて知ったのが、スーパーホテルは鍵がなく、暗証番号でドアを開けるということ。、また、鍵をかえさなくてよいので、チェックアウトのさい、フロントに立寄らなくてよいということ。 泊まった部屋。2段式ベッドの上段が、普通のベッドの上にあった。 |
1時間ほど休憩し、夕食をとりにでた。 向かったのは居酒屋「ブルちゃん」。 |
店内。座ったのはテーブル席。カウンターが壁に面していて窮屈そうだったので。 |
上左 ちょい飲みセットがあったので、まず注文。 サッポロビール。この瓶ビールは、初めてではないが飲む機会はあまりない。 上右 セットの手羽先。 左 セットのサバ串。サバの串焼きは初めてだ。珍しいと思う。 |
しいたけステーキ。 メニューを見ていて、大分県はしいたけが名産だったて思い出して注文。 下左 焼酎「二階堂」の水割り。ジョッキで出てきたが、値段は他店のグラスの場合と同水準でお得。 左 醸造元は日出町の「二階堂酒造」。 |
どて煮。 玉子、こんにゃく、牛すじ。 |
串焼き。 えのきベーコン、つくね、ソーセージ、かしわ(ワサビ味)。 飲物を買って宿に戻った。 |
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