2 日 目   松 代

 

 

川中島古戦場
 朝食。

 長野らしいものとして、左下のそば、右上の野沢菜。

 ご飯は炊き込みご飯、右真中はアルプス牛鍋。

 食べすぎに注意しないといけない。
 デザートとコーヒー。

 デザートも種類が多い。
 
 丸1日を使える3日間で、どれも初訪問になる戸隠、松代、上田を回る計画だが、雨に降られて一番困るのが戸隠。それで、戸隠は雨が降りそうにない最終日に回した。この日は松代と上田のうち行きやすい松代へ。

 駅前のバス停より、9時20分発「松代高校」行きバスに乗車。
 20分ほど乗車。松代の少し手前の「川中島古戦場」バス停で下車。

 下   バス停近くに「八幡社」がある。

 神社は11世紀からあるが、川中島の戦いのうち、一番有名な1561年の第4次合戦さい、武田信玄が本陣をここに置き、境内で信玄と上杉謙信の一騎打ちが行われたと伝えられるなど、第4次合戦の主戦場がこの付近だった。

 川中島の戦いは1553〜1564まで5次にわたりあったが、大規模な合戦があったのは第4次。川中島は、島ではなく、千曲川と犀川の合流地点の三角形のエリアのことだが、戦いは三角形のエリア外でも行われた。

 
 
 
 まず本殿で参拝。
 
 信玄・謙信の一騎打ちの像。

 左の座っているのが信玄。馬に乗っているのが謙信。

 もっとも、一騎打ちの記載のある史料もあるが、実際には、信玄は斬りつけられたのは確かだが、それは上杉方の家臣によるというのが真相のようだ。
 
 首塚。

 戦いのあと、武田側によって、上杉側も含めて遺体6000体を集めて、ここに埋葬したらしい。そして首塚をたて供養した。

 謙信はこれに感謝して、武田側で不足していた塩を贈ったとされる。
 
 川中島の戦い(第4次)の陣地配置図。赤が武田軍、黒が上杉軍。武田の本陣は海津城(松代城)、上杉軍の本陣は妻女山。この図は、上が南なので要注意。

 下   激戦地あとの大部分は「川中島古戦場史跡公園」になっている。
 
 長野市立博物館。

 古戦場に設置されているだけあって、川中島の戦いがメイン展示のミュージアム。自然、民俗関係の展示もある。

 下   玄関横の展示案内も川中島がメインになっている。
 民俗展示の中に、すごいのがあった。大岡村芦ノ尻の道祖神。

 1月7日の祭りで、各戸から持ち寄られたしめ縄で作られるという。長野オリンピックでも登場していたらしい。大岡村ってどこにあるのだろうって、ネット検索すると、今は長野市に合併されていて、大町市に近いところのようだ。
 川中島の戦いの経過を示す展示。1〜5次の戦いの詳細がわかった。川中島の戦いに1〜5次があったことすら、今回初めて知った。
松代城址
 古戦場バス停から10分ほどで、「松代駅」バス停着。

 ここには長野電鉄屋代線(屋代〜須坂)の駅があったが、2012年に廃止された。自分は、屋代線も1980年に乗車済なので、通過はしている。
 松代駅舎は保存されている。
 駅舎内。
 駅舎の線路があった側。線路の部分は、駐車場の一部になっていた。
 松代城址へ。駅から数分で、本丸への橋があり、渡る。
 本丸には本丸御殿があったが、今はない。

 もとは、海津城とよばれ、川中島の戦いのときに信玄の本陣になった。

 武田氏の滅亡後、拠点にする武将がいろいろと変わったが、1622年に真田信之が、上田から転封され、以後、明治維新まで真田氏の松代藩統治の拠点になった。
 石垣の北西の端には戌亥(いぬい)隅櫓台があるが、櫓があったのかどうかは案内板からはわからなかった。
 櫓台から見た本丸と南側の山々。
 
 本丸からは入城時とは別の出入口を使ったが、ここは太鼓橋と太鼓門が復元されていた。
 
 真田宝物館に向かう途中、道路に線路が埋め込まれたままのところがあった。
 
 真田宝物館。人の気配がなく、嫌な予感がした。閉館であった。
 
 宝物館、真田邸、文武学校、横田家は火曜閉館というのは調べていたが、宝物館の数日間休館ということまではわからなかった。
真田邸、文武学校、"日暮し庵"、横田家、象山神社
 すぐ近くの真田邸へ。

 幕末の1864年の建築。
 
 床の間のつくりとか、壁紙が柄もであるとか、江戸時代とはいえ、現代風の雰囲気も感じられる。

 下左   長い廊下。

 下右   藩主用のトイレ。
 
 
 
 
 文武学校へ。

 幕末に開設された藩校。各地の藩校は"〇〇館"という名が多いが。ここは単純な名前でわかりやすい。

 数ある藩校の中で、開設当時の姿でそのまま残っているのは珍しいという。

 ここは剣術所。
 
 上   弓術所。

 左   文学所。文学とは、武術に対しての学問という意味で、西洋医学も含まれていた。
 藩士2名が学校の事務をとっていたところ。
 
 文武学校の斜め向かいにある白井家。公開されている藩士の家の1つ。

 川中島から傘をささないで済む程度の雨が降っていたが、とうとう傘が必要になってきた。それでも、土砂降りではないから、まだいい。
 「日暮し庵」で昼食。

 登録有形文化財のプレートがついていたが、どうも、店舗の後にある住居の部分にようで、外観では古い部分はわからなかった。店舗は新しい。
 
 店内。

 下   「まつしろ定食」を注文。

 せいろそば、麦とろご飯、長芋の千切り醤油豆添え、松代産のあんずを使ったあんず寒天。
 
 
 ご飯に麦とろをかけたところ。
 
 そば湯。

 下  藩士の家の1つ、原田家へ。
 
 
 玄関。

 茅ぶき屋根なのが特徴。藩士の家の中でも、昔のままの姿をとどめている家屋だという。
 
 居間。

 仕事のための部屋として、床の間があり、天井がついている。
 
 かまどがある。土間にむしろが敷いてあるが、当時もそうだったのか、展示を見るのに歩きやすくするためのかは不明。天井がなく、直接、高い屋根裏が見える。
 
 横田家の人物についての説明があり、びっくり仰天。

 明治になって、横田秀雄が生まれ、彼は大審院長、明治大学総長をつとめた。総長のとき、彼は法学部の女子部を日本で初めて設置したという。そして、その一期生に三淵嘉子がいるという。

 2024年のNHK朝ドラ「虎に翼」では、主人公の寅子が、明律大学に設置された女子部への入学を大学教授から勧められ、その後、日本最初の女性弁護士、裁判官になる。寅子は三淵嘉子をモデルにしたことは知ったいたのだが、女子部への入学を勧めた大学教授のモデルは。この家を生家とする横田秀雄だったのだ。

 横田家の見学は、どちらでもいいやとという思いでやってきたのだが、見学してよかったって思った。
 
 家の裏側に出て、一部が2階建てになっていると気づいた。当時の民家としては珍しかっただろうな。
 
 家の裏手には畑がある。自給自足だったようだ。畑仕事は人をやとってしていたという。
 
 
 上   象山神社。佐久間象山を祀る。左手には乗馬する象山の像。

 佐久間象山が松代藩士だったとは知らなかった。文武学校で知った。

 幕末に活躍した、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬は象山の門下生だった。

 左   本殿で参拝。
 
 
 上   境内には幕末の偉人の像が並ぶ。

 立っているのは、8代藩主・真田幸貫(老中として天保の改革にかかわる)と象山。その左側に。吉田松陰、小林虎三郎、右側に、勝海舟、坂本龍馬、橋本佐内の像。

 左   傘がいらなくなったので、折りたたみ傘をたたんで歩く。   

 山寺常山邸。藩士の家なのだが、ここは昭和の初めに改築されたもので、かなり現代風な感じ。
 ここは広い庭園もあり、庭園がメインのスポットのようだ。
象山地下壕(政府移転予定地)
 太平洋戦争末期、松代には、政府、大本営、皇居の移転のための地下壕がつくられた。使われることはなかったが、現在でも残っている。

 地下壕は3ヶ所あって、1ヶ所は崩落していて、よくわからなかった。政府が移転予定だった象山地下壕は公開されているので、見に行った。大本営、皇居が移転予定だった舞鶴山地下壕は、地震観測所として使われていて、中には入れないが、外観は見られるので、外観を見に行った。
 
 象山地下壕の見学を受付で申し出る。無料である。

 ヘルメットをかぶることと、入口の鉄扉を入ったら閉めて、戻ってきたときも出たら閉めるように言われた。
 
 案内板で青い線の部分が公開区間で、終点まで約530mということだ。往復で約1km強。考えていたよりも長い距離だ。
 
 最初の2omほどは下り道。あとは平坦。
 
 補強材のあるところ、ないところ、いろいろだがこんな感じのところを500mほど歩いた。

 思っていたほど息苦しいということはなく、涼しいので快適だった。15度くらいじゃないだろうか。
 
 岩削機ロッドが残っているとのことで、探したがよくわからなかった。
 
 直角に曲がる地点。左からやってきて、右へ向かった。
 
 先端が外部につながっているところもあった。
 
 電線を固定するための木片の説明。下部の小さい字で、公開部分にはないことが書かれている。

 どこの地下壕だったか忘れたが、木片をみたkとがあり、そこのガイドも同じような説明をしていた。
 
 トロッコ線路の枕木の跡。

 下左   壕を東西南北、水平に精密に掘るための測量で使った杭の跡。

 下右   公開部分の終点に到達し、引き返した。
 
 
 
 
 一番奥の地点。
 
 地下壕のそばにあった展示館。地下壕は長野市の管理だったが、展示館は民営の施設だった。
舞鶴山地下壕(大本営、皇居移転予定地)
 続いて、大本営と皇居が移転予定であった地下壕に向かう。2kmほど離れていて、30分ほど歩いた。
 
 大本営のために掘った地下壕は、現在、気象庁地震観測所として使われている。
 
 地下壕の中は地震観測施設になっている。

 下   大坑道の中に観測施設が設置されている。

 観測所の庁舎は1〜3号庁舎があるが、うち1号庁舎が天皇御座所予定地であった。
 
 
 石英管式ひずみ計、水管傾斜計は、南北、東西に100mあるとのことで、細長い地下壕が適しているようだ。
 
 ここの地下壕は昭和22年から地震観測施設として利用されている。てっきり、昭和30、40年代におこった松代群発地震に関連して使われるようになったものと思っていたが、戦後すぐに利用が始まっていたのだ。

 地下壕がここに設置されたのは、岩盤が安定しているからであったが、地震観測施設に求めれれる条件も同じなので、なるほど、大本営・皇居の移転先と考えられたところは、地震観測施設としても適地なのだと納得。
 
 2号庁舎にある庁舎の玄関。現在は、無人化されたので、シャッターが下ろされている。
 
 1号庁舎。ここが天皇御座所予定地であった。つまり仮皇居。御座所として建てられた建物は建て替えられたようだ。
Windsで夕食
 長野駅からのバスの終点が松代高校だと、行きにわかったので、松代高校から長野駅行バスに乗車。1時間弱で駅に戻った。
 
 駅に戻り、いったん宿で休憩。

 そのあと洋風の居酒屋「winds」へ。
 
 店内。

 下左   クラフトビール「マリカ ホーム」。

 下右   製造は長野市の「マリカ ブリューイング」。
 
 
 
 
 信州サーモンのカルパッチョ わさび醤油かけ。

 信州サーモンは、ニジマスをもとに他種と交配して作られたもの。

 下左   清酒「本醸造 琅鶴(ろうかく)の郷」。

 下右   醸造は長野市信州新町の「尾澤酒造場」。
 
 
 
 
 信州オレイン豚と長葱とキノコの酒蒸し。

 信州オレイン豚は、一般的な豚よりもオレイン酸を多く含み、うまみがあるという。

 宿に戻ってあと、部屋から出るのが面倒になり、温泉と夜鳴きそばはいかなかった。
 

 

 

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