5 日 目 種 子 島 へ
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![]() デザートとコーヒーは前日と同じなので写真省略。 左 チェックアウト後、鹿児島空港へ送迎してもらう。歩いても10分で行けるが、雨なので。 |
![]() 朝ビールをいただく。伊丹のサクラでは、おつまみが1種なのだが、鹿児島では4種類出されているのもいい。 でも、不安になる放送があった。種子島行きと屋久島行きは、種子島空港、屋久島空港の視界不良のため天候調査中とのこと。 |
![]() 別に気づいたことがある。種子島行き、屋久島行き(下の方の便)、徳之島行きがANAとコードシェアになっていること。後日調べたら、JAL側も、これまでANAの独壇場であった五島や対馬行きの便でコードシェアを増やしているようだ。 |
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![]() 連絡バスは南国交通に委託されていた。 |
![]() 佐多岬の近くを飛んでいると思っていたら、あっという間に種子島上空に入り、着陸。 |
![]() 下 歩いてターミナルへ。種子島空港の愛称は「コスモポート」のようだ。 |
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![]() 打上げは1月25日とあるが、島で泊まるのは1月23日から25日で、26日に島を出るのだ。 予定を組む際、打上げ日は何も考えていなかった。考えていたのは日祝には島にいないということ。バスが運休なので。 25日は訪問するところも考えていたが、予定を変更して、打上げの見学をしよう。 |
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![]() 荷物を預け、身軽になって西之表の街歩きにでかける。 |
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![]() 正式名は、種子島開発総合センター。種子島の自然、文化、歴史の博物館なのだが、鉄砲関係が充実していることから、鉄砲館と呼ばれている。 |
![]() 下 鉄砲は刀鍛冶によって作られた。そして、刀、鉄砲とともに作られたのがハサミ。今も種子島の特産になっている。 |
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![]() 鉄砲伝来のときの種子島の島主。 1542年、倭寇の頭目の王直(そういえば五島の福江で王直の屋敷跡などを見たことを思い出した)の持ち船が種子島の南端の門倉岬に漂着。 乗船していたポルトガル商人から鉄砲を購入して、鉄砲の製法を研究させたことで知られる。 伝来年は1943年という説があり、ポルトガル船であったという説もある。 |
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![]() 羽生慎扇は明治維新を契機に島を離れた。そのため空家になったが、1886年に旧島主の種子島氏の住居になった。 種子島氏は1997年、ここを離れ、普段は鹿児島に住み、行事のときだけ種子島にやってくるようになった。ここは市の所有になり、2010年から公開されるようになった。 羽生慎扇は島を離れた後、京都で池坊いけばなの要職に就き、東京出張所所長になった。 将棋の羽生善治さんの曽祖父は西之表に住み、県会議員をしたという。羽生さんの曾祖父と羽生慎扇の関係はわからなかったが、何らかの縁戚関係があるのだろう。 羽生善治さんが7冠を達成した時、西之表に親戚によって碑がたてられ,羽生善治さんも来島したとのこと。 |
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![]() 犬追物(犬を馬に乗って矢尻のついていない矢で射る)が行われていたところ。 |
![]() 下左 栖林神社。祭神は19代島主、種子島久基。 下右 墓地には歴代の島主などが葬られている。 |
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![]() フランシスコ・ザビエルは豊後からインドに帰る途中、種子島に立寄り、慈遠寺で8日間滞在したという。 下 幕末に種子島氏によって、西之表港の築堤がつくられた。 |
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![]() 3泊する宿は、うち2泊で早朝出発の予定なので朝食はつけなかった。そのため、翌朝に食べるパンなども購入。 |
![]() この宿は、旅行支援が受けられなかった。新たな旅行支援のルールでは、支援開始前からの予約は対象外。それで、予約しなおしが必要。 でも、種子島の宿は満室続きで、キャンセルすれば、同じ日の同じ宿がとれるとは限らないからだ。そのため、予約をしなおさなかったのだ。よって、旅行支援も受けられず。 |
![]() 2面が窓になっている部屋だった。安めのわけあり部屋だったのだが、こういうことかと思った。 2面が窓で、寒波のため寒さが伝わりやすいことと、テーブルが入口を入ってすぐのところにあったのが難点だった。(写真で真中がテーブル) |
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![]() 夜に、ネットでロケット打上げの延期を知った。25日の予定が26日に延期だという。 打上げの見学は無理になった。26日は宮崎に移動する予定。打上げのころは、飛行機の中だ。 宿は満員で、この宿の延泊も、他の宿で1泊するのも不可能。残念だが打上げ見学はあきらめた。 写真は、延期されたあとの案内で、翌日に撮影したもの。25日予定の時の案内は10時から12時の間という大雑把なものだったが、26日の案内は10時49分20秒から10時50分21秒の間と細かい。 |
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