5 日 目   種 子 島 へ

 

 

 
 上   朝食。前日には選べなかったものを中心にいただいた。

 デザートとコーヒーは前日と同じなので写真省略。

 左    チェックアウト後、鹿児島空港へ送迎してもらう。歩いても10分で行けるが、雨なので。
 
  荷物を預け、保安検査を終え、すぐにサクララウンジへ。

 朝ビールをいただく。伊丹のサクラでは、おつまみが1種なのだが、鹿児島では4種類出されているのもいい。

 でも、不安になる放送があった。種子島行きと屋久島行きは、種子島空港、屋久島空港の視界不良のため天候調査中とのこと。
 
 案内板でも、種子島行きと屋久島行きに視界不良で、、、と出ていた。奄美大島行きは、理由はわからないが、欠航とのこと。

 別に気づいたことがある。種子島行き、屋久島行き(下の方の便)、徳之島行きがANAとコードシェアになっていること。後日調べたら、JAL側も、これまでANAの独壇場であった五島や対馬行きの便でコードシェアを増やしているようだ。
 
 搭乗時刻近くになって飛ぶことがわかりホッとした。それでも、着陸できない場合は鹿児島空港に戻るということだったが。
 
 優先搭乗で入ったのは他に1人だけ。伊丹・羽田便などとは大違い。もっともバス連絡だったので、優先搭乗の意味はあまりなかったのだが。

 連絡バスは南国交通に委託されていた。
 
 久しぶりのATR42。出入口は後方にある。

 佐多岬の近くを飛んでいると思っていたら、あっという間に種子島上空に入り、着陸。
 
 種子島空港着。

 下   歩いてターミナルへ。種子島空港の愛称は「コスモポート」のようだ。
 
 
 西之表に向かうバスの出発まで少し間があるので待った。待合室には宇宙関係の展示などが多い。
 
  「ロケット打上げのお知らせ」があり、よく見ると、何と、自分が種子島に滞在する間にロケットが打ち上げられるっ!

 打上げは1月25日とあるが、島で泊まるのは1月23日から25日で、26日に島を出るのだ。

 予定を組む際、打上げ日は何も考えていなかった。考えていたのは日祝には島にいないということ。バスが運休なので。

 25日は訪問するところも考えていたが、予定を変更して、打上げの見学をしよう。
 
  9時55分発のバスに乗車。空港バスも日祝運休なので要注意。
 
 10時21分、支庁下で下車。
 
  3泊する「ホテルニュー種子島」へ。

 荷物を預け、身軽になって西之表の街歩きにでかける。
 
 鉄砲館に向かう。鉄砲館は高台にあって、向かう途中に宿もよく見えた。
 
 鉄砲館に到着。

 正式名は、種子島開発総合センター。種子島の自然、文化、歴史の博物館なのだが、鉄砲関係が充実していることから、鉄砲館と呼ばれている。
 
 各種の鉄砲が展示されていた。

 下   鉄砲は刀鍛冶によって作られた。そして、刀、鉄砲とともに作られたのがハサミ。今も種子島の特産になっている。

 
 
 種子島時尭像。

 鉄砲伝来のときの種子島の島主。

 1542年、倭寇の頭目の王直(そういえば五島の福江で王直の屋敷跡などを見たことを思い出した)の持ち船が種子島の南端の門倉岬に漂着。

 乗船していたポルトガル商人から鉄砲を購入して、鉄砲の製法を研究させたことで知られる。

 伝来年は1943年という説があり、ポルトガル船であったという説もある。
 
 続いて、月窓亭へ。
 
 寺子屋みたいな感じの座敷で、由来についてのビデオを見る。
 
 菓子とお茶も出され、いただきながらビデオを見た。
 
 この屋敷は、種子島氏の家老の羽生氏のものだった。羽生慎扇の祖父羽生道潔がこの屋敷を建てた。

 羽生慎扇は明治維新を契機に島を離れた。そのため空家になったが、1886年に旧島主の種子島氏の住居になった。

 種子島氏は1997年、ここを離れ、普段は鹿児島に住み、行事のときだけ種子島にやってくるようになった。ここは市の所有になり、2010年から公開されるようになった。

 羽生慎扇は島を離れた後、京都で池坊いけばなの要職に就き、東京出張所所長になった。

 将棋の羽生善治さんの曽祖父は西之表に住み、県会議員をしたという。羽生さんの曾祖父と羽生慎扇の関係はわからなかったが、何らかの縁戚関係があるのだろう。

 羽生善治さんが7冠を達成した時、西之表に親戚によって碑がたてられ,羽生善治さんも来島したとのこと。
 
 赤尾木城の石垣。
 
 石段を上る。城跡は榕城小学校になっていた。
 
 犬の馬場。

 犬追物(犬を馬に乗って矢尻のついていない矢で射る)が行われていたところ。
 
 案内板では防空壕跡になっているのだが、壕の入口がわからなかった。埋まってしまったのだろうか。

 下左   栖林神社。祭神は19代島主、種子島久基。

 下右    墓地には歴代の島主などが葬られている。
 
 
 かつての慈遠寺跡で、いまは八坂神社。

 フランシスコ・ザビエルは豊後からインドに帰る途中、種子島に立寄り、慈遠寺で8日間滞在したという。

 下   幕末に種子島氏によって、西之表港の築堤がつくられた。
 
 
 かつて鍛冶屋が並んだところにある鍛冶職人の像。
 
 コンビニに入店。このとき15時。昼食を抜いて歩いていたが、空腹のため、おにぎりを温めてもらって、食べた。昼食と夕食の兼用。

 3泊する宿は、うち2泊で早朝出発の予定なので朝食はつけなかった。そのため、翌朝に食べるパンなども購入。
 
 宿にもどり、チェックインして部屋へ。

 この宿は、旅行支援が受けられなかった。新たな旅行支援のルールでは、支援開始前からの予約は対象外。それで、予約しなおしが必要。

 でも、種子島の宿は満室続きで、キャンセルすれば、同じ日の同じ宿がとれるとは限らないからだ。そのため、予約をしなおさなかったのだ。よって、旅行支援も受けられず。
 
 奥から入口側を撮影。

 2面が窓になっている部屋だった。安めのわけあり部屋だったのだが、こういうことかと思った。

 2面が窓で、寒波のため寒さが伝わりやすいことと、テーブルが入口を入ってすぐのところにあったのが難点だった。(写真で真中がテーブル)
 
 窓からの眺め。右端の白い建物が市役所。真中の茶色の建物の左に小さく見える茶色いのが鉄砲館。
 
 この日は、部屋から出ず、16時から閉じこもり。

 夜に、ネットでロケット打上げの延期を知った。25日の予定が26日に延期だという。

 打上げの見学は無理になった。26日は宮崎に移動する予定。打上げのころは、飛行機の中だ。

 宿は満員で、この宿の延泊も、他の宿で1泊するのも不可能。残念だが打上げ見学はあきらめた。

 写真は、延期されたあとの案内で、翌日に撮影したもの。25日予定の時の案内は10時から12時の間という大雑把なものだったが、26日の案内は10時49分20秒から10時50分21秒の間と細かい。

 

 4日目 人吉・種子島のトップ 全体のトップ 6日目