26 アブチラガマと軽便鉄道跡 |
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![]() 下左 沖縄そばとぽろぽろじゅうしぃ(沖縄風のおじや)。 下右 デザートとコーヒー。 |
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![]() 南城市はいくつかの村が合併してできたのだが、とびぬけて大きな村があったのではなかったので、どの村役場を市役所にしても対立がおこりそうだし、移動も不便そうだし、市の中心の何もないところに市役所を建設したのだろう。 |
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![]() 沖縄戦の末期、南部には軍の陣地や野戦病院として多く利用されたのがガマ(洞窟)だ。また、避難した住民も多くがガマに逃げ込んだ。この付近は、ガマがたくさんあるようだ。 |
![]() 沖縄戦で特に有名なガマがこのアブチラガマや読谷村のチビチリガマだ。 アブチラガマの管理棟に到着。アブチラガマを見学する場合、3ヶ月前にガマ入壕とガイドを予約しなければならない。自分の旅の場合、3ヶ月前には沖縄に行くことすら決まっていなかった。沖縄にきてからも予定は毎日変わり、アブチラガマに行こうと決めたのは当日朝だった。 |
![]() 事情を話し、入壕したい旨を伝えると、ガイドを手配できるならという条件付きでOKとなった。すぐにガイドに電話してもらえて、ガイドもOKとのことだった。入壕料300円とガイド料1000円、それに懐中電灯レンタル料や軍手代を払って、ガイドを待った。 |
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![]() ガイドとともに、ガマに向けて出発。 ガイドは出かけるところだったということで恐縮。とてもありがたいことだ。 コロナ禍で長らく途絶えていた修学旅行でのガイドが少しづつ増えてきたとのこと。 |
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![]() アブチラガマは南部での戦闘の初めは軍の陣地として利用されていたが、軍が南方へ下がるとともに、北から野戦病院が移転してきた。 移転と同じく、ひめゆり学徒隊も病院で働くことになった。同時に住民も避難してきた。病院として機能したのは1か月間で、病院もさらに移転。 住民は一緒に移転した人と、ガマにとどまった人がいた。結果的にはとどまった住民と傷病兵のうち動けなくて置いてきぼりにされた人たちが終戦後しばらくして降伏して命は助かったという。 |
![]() この場所も住民の避難場所だったという。 |
![]() 管理棟でヘルメットと懐中電灯を返し、ガイドに感謝を述べて退去。 |
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![]() 下 城跡の一角からの眺め。中心に平和祈念公園の祈念塔、その向こうに摩文仁の丘が見える。 |
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![]() 上右 「国場」バス停で下車。南城市役所行きに乗換え。 左 「与那原町役場入口」で下車。 下 バス停からすぐのところに、かつての沖縄軽便鉄道与那原駅を修復した建物があった。 軽便鉄道は1945年に戦災のため営業を終えたが、与那原駅舎はコンクリート造だったので、その後、消防署、与那原町役場。JA与那原支店として使われ続けた。そして、修復して「軽便与那原駅舎展示資料館」としてよみがえった。 |
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![]() 見学後、裏側に出た。かつての駅舎で使われていた柱が保存されている。駅舎の大きさは、かつての駅舎よりも小さくなっているわけだ。 |
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![]() 向かった先はジャッキー。今回の旅では初日にジャッキーでサイコロステーキをいただいているので、今回の旅で2度目だ。 下 何と旅初日にきたあとに値上げが行われていてびっくり。 |
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![]() 下左 飲物は泡盛「忠孝」の水割りにした。小さなボトルで水と氷も。 下右 「忠孝」の醸造元は豊見城市の「忠孝酒造」。 |
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![]() 先にやってきたスープと野菜を先にいただく。ほかにご飯あり。 |
![]() 値上がりが残念だったが。美味しくいただけた。 宿へ戻り、良く歩いた1日が終了。 |
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