5 日 目  戦 跡 め ぐ り

 この日は戦跡めぐりツアーに出かける。

 早朝にスコールがあった。しばらく豪雨が降り続いたので心配したが、やんでよかった。

 朝食。この日の朝食は、おかずだけだと普通の民宿の朝食なのだが、目を引いたのは、デザートのパパイヤ。
 
 パパイヤは「サンライズ」という甘みの強い品種。種は食べない。青い状態で、タイのソムタムのようなサラダにすることもあるというが、今回は食べる機会がなかった。


 小笠原の農業は熱帯の果物が中心。特に多いのはパッションフルーツと島レモン(菊池レモン)で、パパイヤ、マンゴー、バナナ、ドラゴンフルーツなどを作っている。果物ではないが、島トマト、コーヒーなども作っている。一方、米や一般的な野菜は土壌や気候の関係でつくらず。おが丸で運ばれてくる。
 9時にガイドが出迎えにきた。旅行社におかませだったが、有名な「板長さん」を手配してもらった。

 板長さんは、小笠原にやってきて50年近くなるが、その前は料理長をいていた。小笠原ではガイドのかたわら戦跡の調査や整備をされている。硫黄島での遺骨収集にも携われた。
 
 父島は空襲はあったが米軍が上陸しての地上戦はなかったため、戦跡が残されている。

 父島の山地を南北に貫くのが夜明道路。前々日のナイトツアーでも通ったが、夜なので何もわからなかった。昼間に通って様子がわかった。
 
 現地に到着。トレッキングシューズでは汚れるからと長靴をすすめられ、履き替えた。このところスコールが多く、この日の朝は特に激しく降ったので、ぬかるんでいるため。

 夜明山周辺の戦跡をめぐるが、最初にやってきたのは「海軍通信隊本部壕」。懐中電灯を借りて入る。
 
 入口の扉は2重になっていたが、その扉の枠。

 ロの字形になっていて、一辺40mと入口の支線で全長200mほど。

 下左   電線の碍子。

 下右   トンネルを掘り進めるため、爆薬を入れる穴をつくった。
 
 
 壕の中には、司令官室や通信室があり、兵士のベッドは壕に直接設けられていた。

 ここは調理室だった。床に鉄板が敷いてある。

 下左  水をためていた甕。

 下右  別の入口から外に出た。この入口は板長さんが整備したという。
 
 
 しばらく夜明山を歩いて小さな壕へ。

 「陸軍四一式山砲」。

 見通しのよくない場所だったので、ここから運び出して使うのかと尋ねたら、以前は見晴らしが良い場所で、海が見えたそうだ。
 
 ジャングルの中の道がないところを歩く。

 沖縄よりはるかに降水量が多く密林になっている。日本で東南アジアに近い植生が見られるのは沖縄ではなく小笠原だなと思った。
 
 板長さんが集めたという水を入れるのに使ったビール瓶や軍の食器類。

 ビール瓶には「大日本麦酒」と浮き出し文字があった。
 
 この道は軍道でトロッコも通っていたという。トロッコの線路ははずされている。
 
 トロッコのレールや車輪がかためて放置してあった。
 
 運んできたセメントが袋ごと固まったもの。
 
 こんなところに壕の入口がと思うようなところから壕に入る。階段があり、すべらないように下りる。
 
 「八八式7センチ野戦高射砲」。

 1930年代以降、旧陸軍の主力高射砲。約2000基つくられ防空要地などに設置された、
 
 外に出てみると高射砲は二見湾ににらみをきかしていたことがわかった。真中に見えるのは父島の市街地。左下には境浦海岸の濱江丸も見える。
 
 境浦海岸の濱江丸を拡大。船の部分は水深が浅いためか、船の形がわかる。(濱江丸の説明は3日目を参照)
 
 砲台を設置するためにつくられた円形のくぼみ。全体を撮影できなかったので、その半分弱。
 
 こちらも砲台を設置するためのくぼみ。全部で5ヶ所あったが、使われることはなかった。
 
 発電室だたっという建物。この付近には陸軍関係の建物が集まっていたという。

 下左  中にも入ってみた。

 下右  井戸跡。
 
 
 またまた壕の中へ。写真では見にくいが、急な傾斜を下りるのにロープを使う。
 
 壕の先端では砲台が海をにらんでいる。

 「12センチ高角砲」。

 もともとは戦艦に搭載する大砲だったが、大戦中に大量生産され陸地で使われた:

 
 
 外に出て銃眼を見る。
 
 この砲台が監視していたのは島の西側。
 
 板長さんのガイドツアーは板長さん手作りの弁当がでる。本物の板長をされていただけあって、美味しい弁当をいただけた。

 板長さんの個人的なお話も伺い、1時間ほど歓談した。、
 陸軍関係に様々な建物があったらしい。司令官室、弾薬庫、兵舎など。調理場もあったが、ご飯を炊くのは別の場所だたっという。ご飯を炊くさいの煙を発見されることを警戒してであった。

 下左   艦砲射撃で弾があたったヤシの木で、」当たった側。

 下右   弾が抜けた側。
 
 
 板長さんが集めた軍用車のエンジンとやかんや食器類。
 
 陸軍のマークが入った茶碗。
 
 短区間だがトロッコの線路が残され壕の中まで続いていた。
 
 壕の中に入ってみた。20mほど進むと行き止まりになっていた。ここまで進んだが、戦争が終わったため、工事がとりやめになったようだ。この壕は壕というより、トロッコのトンネルとしてつくったようだ。
 
 出発地点まで戻ってきたが。車道に出る直前に首無し二宮尊徳像があった。

 1944年に空襲があり、その直後に全島疎開が行われた。大村尋常小学校(のちラドフォードスクールができた場所)にあった二宮尊徳像がこの地に移された。米国統治時代に頭部がきりとられ米国に持ち帰られたようだとのこと。

 これを見て思い出したのは、イスラム支配下で仏像やキリスト像の頭部がが切り取られたこと。
 
 
 上左  ナイトツアーで夜に行った国立天文台VERA小笠原観測局へ。ここに車をおいて、そのすぐそばにある「海軍通信隊送信所」へ。

 上右  街灯がある。戦前のものとは思えないデザイン。

 左   送信所跡。大きな建物だ。
 
 内部。父島で最大の戦跡で何に使ったかよくわkらないが昔のまま残されているものもある。
 
 父島北部の宮の浜へ。ここに特攻艇「震洋」の格納庫がある。写真の真中の穴。他にもあるというが、出撃はしていないという。ここは遠くから見るだけ。

 宮の浜は戦跡とは別にこの翌日に行こうと思っているので、戦跡も行ってみようと思う。
 
 大根山公園。トーチカが整備されて保存されている。市街地から坂道を上がったところ。
 
 公園には、戦車の残骸もきれいに保存されている。
 
 宿に15時30分に戻った。

 この日も疲れたので、跡は宿で休むことにした。

 ゆっくり入浴。

 前々日に買っておいた「小笠原島レモン クラフトチューハイ」を飲んで、夕食までゴロン。
 
 18時より夕食。

 この日は、鍋物があった。中身は魚と野菜。

 夕食後は部屋で過ごした。

 

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