日目  ブキティンギ街歩き

 

 

朝食食べて街歩きに出発
 ロントンにスープをかけていただく料理。ロントンは米で作った餅の一種。スープには野菜や揚げ豆腐などが入っている。ジュースはまずい。
 
 ナシゴレンにえびせんなど。

 下左  卵料理はその場で調理してくれる。オムレツにしてもらった。

 下右  デザート。右側は寒天に甘いタレをかけたようなもの。

 前日のホテルほどよくはなかったが、インドネシア風の食事ができてよかった。
 
 
 ホテルにあった塔にあがってみた。ホテルの周囲が森になっているので、市街地などの眺めはよくなかった。周囲の山の姿はきれいだった。
 
 8時30分にホテルを出発。写真から、ホテルがあるのが、ずいぶん郊外にあるということがわかるだろう。実際は郊外っても4kmほどなのだが、4km離れるとホント田舎って感じで辺鄙なところだ。アップダウンの激しい道を通ってブキティンギの中心部へと向かった。

 
 
 ホテルから1時間くらい歩いてようやくブキティンギの街の中心部にやってきた。

 ブキティンギのランドマークといえる歩道橋に到着。歩道橋といっても、橋は目立たず、目立つのは橋の中間に設けられている門だ。門は歩道橋を支えるために作られたのだろうが、門が目立ちすぎて、門がランドマークのような感じになっている。

 この歩道橋は、2つの丘から成り立つブンドカンドゥン公園の2つの丘を結ぶものだ。
 
 
 上左  門からは歩道橋に上がることはできない。少し離れたところから上がられなばならない。上がり口はいくつかあるが、そのひとつ。

 上右  門から入って進むと階段がある。

 左  公園の入口に到着。入口の前では落花生(皮つきピーナツ)を売っていた。落花生売りは街のあちこちで見かける。
 公園の2つの丘のうち、西側はコック要塞だ。東側は博物館と動物園がある。コック要塞は19世紀にオランダが建造したものだ。

 西側は丘の一番高い部分に要塞があったのだろうが、今は何も残っていない。写真に写っている建物は近年たてられたもの。

 下左  公園の東側に向う歩道橋。歩道橋を通っているだけだけでは、門の形はまったくわからない。
 
 
 上右  歩道橋の上から見たブキティンギの街。

 左  博物館。ミナンカバウ様式で、内部はミナンカバウ人の母系社会についての展示や儀式での衣装の展示があった。なぜだか、スマトラ島で発見された奇形をした動物のはく製もいくつか置かれていて、なんだか場違いの印象を受けた。
 
 東側は博物館以外の敷地は動物園になっている。あまり整備されていない動物園であった。



 
















 左  ブキティンギのもうひとつのランドマークが時計塔。塔の上はミナンカバウ様式になっている。

 上  時計塔の周囲はさほど広くはないが公園になっていて、休憩する人でにぎわっていた。自分も歩き疲れて一休み。
 
 公園のそばではチドモ(馬車)が待機。乗ってもいいかなと思っていたが、せいぜい1km四方の市街地なので、じゅうぶん徒歩だけで回れるので、結局乗らずじまいだった。
 
 公園から200mほど離れたところのちょっとした丘の上にかなり大きな平屋の建物があった。階段がついていたが、入口は閉ざされていた。

 下左  丘の中腹に銅像がたっている。

 下右  ブン・ハッタのモニュメントだという。スカルノ・ハッタ空港のハッタの銅像だろう。ハッタはブキティンギの出身で、インドネシア独立後、スカルノ大統領のもとで副大統領をつとめた人物だ。丘の上の建物はハッタの生家なのだろうか。
 
 
 ブキティンギは坂道と階段だらけの街だ。起伏の激しい丘の上に街を作ったのではと思える。街の中心部では平地を探すのが難しく、時計塔のある広場くらしか広い平地はない。

 だからブキティンギは水平距離がわすかでも高低差があって、地図上では近い距離でも歩いてみると結構、時間がかかることが多い。

 暑い中、坂道を上り下りするので、水分が多く必要だ。このような店で、500mlペットボトルの茶が6000ルピア、水が3000ルピア程度だ。
日本軍のつくった防空壕とシアノッ渓谷
 
 上左  市街地の南部に日本軍のつくった防空壕が残されているので行ってみた。太平洋戦争の緒戦でマレー半島上陸作戦を行った陸軍の第25軍は転戦ののちこのブキティンギに本拠を置いて軍政をしいた。日本軍占領時はスマトラの中心がブキティンギであったわけだ。そのため巨大防空壕が造られた。

 上右  入口にはLobang Jepang(日本の穴)とある。

 左  防空壕の案内図。右下の入口から左下の調理室までは1kmほどあるとても大きな壕であった。
 
 
 上左  階段を延々と10分ほどかけて下る。

 上右  防空壕の中はほとんどの部分がこの写真のような感じでトンネルがただ続いていただけだった。説明は何もないばかりか、出口の方向の表示もなく、出るときに迷ってしまった。

 左  シアノッ渓谷側の山の斜面に出る出口もあった。
 
 
 上左  調理室と思われる部屋。煙を出す穴や調理台らしきものが残されていた。

 上右  一部は整備されておらず、土のままの床で天井が低い部分もあった。あえて昔のままの状態で一部を保存しているのだろうか。

 左  1時間ほどかけて壕内を見学。上がる階段は15分くらいかかった。出入口の近くに日本兵の銅像があった。下の説明板は2004年11月にこの像がつくられたことが記されているだけだった。
 
 
 上左  防空壕はパノラマ公園の中にあるのだが、公園内には猿がとても多い。悪猿もいるようで気をつけていなければならない。

 上右  展望台からは雄大な眺めを楽しめる。

 左  展望台の下は急斜面になっていて、100mほど下に谷がある。この谷がシアノッ渓谷でこのあと行ってみた。
 
  シアノッ渓谷に下りてみる。防空壕から1kmほど車道を下っていくと、崖下にも防空壕の入口があった。壕内を探索した時にはここは気づかなかった。

 下左  さらに少し下っていくと車道から分かれて、急傾斜の歩道で下りられる。かなり急なので雨のときは危なそうだ。

 下右  歩道を15分ほど歩くとようやくシアノッ渓谷の狭い谷間に下りることができた。谷底は水田が広がっていた。
 
 
 
 上左  谷底を流れている川。

 下右  谷底にかかる吊橋。この橋を渡って、さらに4km歩くと銀細工が有名なコタ・ガドゥンの村があるのだが、時間の都合で吊橋を渡ったところで引き返した。

 左  渓谷から100mの高さを今度は上がり、防空壕と同じ高さまで戻った。ヤレヤレと思ったのだが、これから昼食をとろうとしたら、食事のできる店の多いエリアに行くには、さらに坂を上がって、そのあとで坂を下りなければならない。ホント坂道で大変な街だ。
パダン料理を食べて市場をぶらぶら


 
 







  左  遅い昼食をとりに向ったのはセラマット。

 上  料理の入った器が重ねられているのがパダン料理の店の特徴。
 
 パダン料理は席についたらさまざまな料理の皿が並べられて好きなものをだけを食べて、食べた皿だけの料金を払う仕組みになっている。

 ただ、この日は、手をつけた、つけてないとかのトラブルになったら困るとか考えて、店先で食べたい料理だけを指さしして運んでもらった。さまざまな料理が並べられる正式な食べ方は翌日にでもやってみよう。

 当然ながらビールはないので、飲物はコーラにした。
 
 ご飯の入った皿におかずを移し替えた状態。インドネシア風のぶっかけ飯ってところだ。

 青菜、チキンの煮物、卵、魚、ルンダンをのせた。ルンダンは牛肉を香辛料で長時間煮たものでパダン料理の代表格だ。

 飲物を含めこれだけで約4万ルピア。ルンダンは皿に2枚入っていたのだが、料金は1枚分だけだった。
 
  食事後は市場に向う。途中、階段を上がるが、階段も街中のいたるところにある。
 
 アタス市場へ。ブキティンギの市街地の大きさの割には市場がかなり広い。市街地は1km四方の中に収まる程度なのだが、市場は200m四方程度の大きさだ。ブキティンギ周辺の村からの集客が多いのだろうか。

 アーケードのある建物の中を歩くと、スカーフの店があるのだが、顔だけのマネキンの顔がとてもリアルでちょっと怖い。
 


 







  市場の外の道端では石が売られていた。どうみてもタダの石のようだが、どんな価値があるのだろうか。

 上  グラインダーで石を研いでいる人もあちこちにいる。
 
 生きた鶏を売るケージの上に食肉を売る皿がある。これは衛生的にやめてほしいものだ。どうしてこんな売り方をしているのだろう。
 
 こちらでは、生きた鶏のケージの上で焼いた鶏が売られているではないか。こちらも衛生的じゃない。なんとかならないのかなぁ。
 
 とても細長いとうがらし。

 下左  白菜はとても小さい。日本の白菜と比べて、長さは3分の2くらい、大きさは半分くらだろうか。こんな小さい白菜を見たのははじめて。ブキティンギは高原だから、白菜をなんとか作れるのだろうが、それでも熱帯は白菜には条件が悪いのだろう。

 下右  キャベツもとても小さい。こちらも高原なので作れるのだろうが、条件はよくないのだろう。

 
 
 
 ランプータンを売っていたので3000ルピア(約30円)を渡して、その値段分を袋に入れてもらった。
屋台食食って街歩き終了
 市場はぐるぐる回って1時間以上歩き回っていた。日が暮れかかってきて、食事をとってホテルに戻ることにした。夕食は屋台ですませることにした。

 街のあちこちで屋台が店開きしていったが、もっとも屋台が多かったのはジャラン・アハマッ・ヤニ。街のランドマーク、歩道橋を支える門がある通りだ。でもほかの通りもあちこちで屋台が店開きしていた。
 
 BAKSO(バクソ)と書いてあるのを見て、まずはこの屋台に決定。

 バクソは、魚のすり身をダンゴにしたつみれのこと。通常は麺の具として使うので、BAKSOとあれば、”つみれ入りの麺”の屋台と考えてよい。IKHLASはイスラムのルールに則った処理をしたハラールの食事だということかな。
 
 この屋台、テーブルがないので、小さなプラスチック製の椅子に腰掛けていただく。

 麺は乾麺でインスタントラーメンのようだったが、スープは自家製だ。バクソは思っていたよりもたくさん入っていて、大きさが不揃いでとても大きなバクソもあった。

 オレンジ色のサンパルと黒いケチャップマニス(インドネシア風の醤油)がかけられ、唐辛子もそえられている。結構、辛い味になるのだが、美味しいが、量は少ない。1万ルピア(約100円)。
 
 SATEと書いた屋台を見て、サテ(東南アジアで広くみられる串料理)も食べなくちゃ、と思い奥のテーブルへ。
 
 サテは串焼き料理の総称だがたいていは鶏、牛、羊の肉の焼肉だ。そのつもりで屋台に入ったのだが、テーブルについてから、この屋台では肉の串をフライにしてあることに気付いた。このようなサテは今まで食べたことがなく、はじめてだ。
 
 肉フライの横には、ロントン(餅の一種だがイモのような食感がする)がバナナの葉に盛られている。この上にサテが載せられるのだろう。
 
 予想通り、ロントンの上にサテが載せられ、さらにカレー味のスープがかけられていた。肉は羊かヤギかなって感じ。

 サテというと、串焼肉にピーナツソースがかけられるっていうのが、インドネシアやほかの東南アジアで一般的だが、そうじゃないのもあるってのが新鮮だった。
 
 屋台食の夕食を終えると、あたりはもう真っ暗。歩道橋のある門も昼間に見るのとは感じが違う。

 このあと、1時間かけてホテルに戻った。途中、明かりのほとんどない中、急な坂道も上がっていった。
 
 ホテルに戻ってからは、市場で買ったランプータンを食べた。30円でこれだけとは幸せだ。

 前年の同じ時期マレーシアでもランプータンをどっさり買って食べた(前年の記録)。今回より少し少ないくらいの量で70円くらいだったのだが、激安でびっくりしたのだが、今回はさらに安かった。