2日目 5・18事跡を求めてうろうろー光州
光州のバスターミナル前でバスを下車。正規のバスじゃないから、ターミナルには入らない。大きなターミナルで、高速バスと市外バスの共用のターミナルになっている。 翌日は、華厳寺に行って全州へ向かうか、直接、全州に向かうかの予定なので、華厳寺と全州への行き方を下調べ。華厳寺へも直行バスが出ていて、簡単に行けることがわかった。朝一番の華厳寺行きは7時20分。 すでに9時だが、昨夜の飛行機で食べた機内食以来、ほとんど何も食べていないので、まずは朝食。ターミナル内の食堂に入ることにする。食堂の外に、トゥクマンドゥックの張り紙がしてあるので、それを注文。
トゥクとは餅、マンドゥとは餃子で、餅を薄くスライスしたものと餃子のスープだ。朝食メニューとしては、メジャーなものであろう。餅がたくさん入っていて、全部食べると満腹になった。 さて、このあと光州を見て歩くわけだが、目当ては、1980年におこった光州事件にかかわる記念の公園や事件現場だ。日本のガイドブックでは、こうしたところは掲載されていない。そのため、ネットで公園や事件現場のことを調べたが、はっきりした場所まではわからなかった。 ターミナル前の観光案内図を見て、まずは、9・18記念公園に向かい、地下鉄で道庁前の9・18広場へ行き、そのあと光州駅前まで歩き、駅前のインフォメーションで情報収集しようと考えて、行動開始。 光州のバスターミナルは市の中心から3kmほど離れている。記念公園へは、市の中心と反対の方向に歩くのだ。だが、歩いてみてちょっと変だ、、道路の両側が、キア(起亜)自動車の工場なのだ。韓国の自動車市場でシェアNo1はヒョンデ(現代)で、キアはそれに次ぐが、経営難の時期をへて今ではヒョンデの傘下にはいっている。 チュソク休みで工場敷地内は無人に近い状態。それで、不気味な感じがして、本当にこの方向でいいのか心配になり、10分くらい歩いたが、ターミナルに引き返し、もう一度、観光案内図を見た。間違えはなかったが、案内図には工場は書かれていない。で、今度は、人のいない工場敷地にはさまれた道路を避け、別のルートで9・18記念公園へ向かった。
30分ほど歩いて、9・18記念公園に到着。小高い丘の上にモニュメントがある。捕らえられる市民をあらわしているようだ。このモニュメントの下には、ホールがあり、壁には名前のプレートがある。事件の犠牲者の名前なのだろうか。 モニュメントから少し離れて、9・18記念文化会館があり、1階で光州事件の写真を展示していた。会館全体としては、貸しホール、貸し部屋のような利用をしているようだ。この近くには、以前は市内中心部にあった光州市庁が移転したり、すぐ隣にはKBS(韓国放送公社)はじめ高層ビルがたくさんあり、副都心のような感じだ。 このあと、市内中心部向かうのだが、15分ほど歩いて、地下鉄の湖南大学入口駅に向かった。2004年4月にできたばかりの地下鉄に乗るのが目的だ。
車両側面の行き先表示を見てびっくり。ハングル、アルファベットに続いて、カタカナでも表示されるのだ。 終点のひとつは、尚武(サンム)なのだが、「サンム」と表示されているのだ。ただし、漢字では表示されない。日本語の行き先表示はソウルや釜山の地下鉄にはない。 日本も含めて、今まで乗った世界各地の交通機関で、自国の文字とアルファベット以外で、行き先表示しているのは記憶がない。
車内はとてもきれいだ。休日の午前中とあって車内は閑散としている。普段はどうなのだろう。国鉄駅やバスターミナルは通っていないので、やや不便な感じがする。 光州第一の繁華街は錦南路。この下を地下鉄は通る。道庁駅で下車。地上に出ると、全羅南道庁がある。その前の交差点の真ん中には噴水があって、この交差点を5・18広場というようだ。光州事件のとき、市民の集会はこの交差点で開かれていたようだ。
次に、錦南路から少し離れた芸術通りと名づけられた通りを歩いてみた。骨董品や伝統茶館があり、ミニインサドンのような感じらしい。だが、この日はチュソクとあって、全部の店が閉店していて閑散とした通りにすぎなかった。 このあと、光州駅まで2kmほどを30分ほどかけて歩いた。途中、繁華街あり、下町ふうの町並みあり、車の行きかう道路ありだったが、ここを歩いたのには訳がある。全羅南道庁から光州駅にいたる一帯が、光州事件のさいに、市民の解放区のようになった地域だからである。今や、事件を感じさせるものな何もなく、光州は大都市なんだと感じた。
光州駅に到着。KTXの開通にあわせて、停車駅のほとんどで駅の改装が行われているが光州駅もブルーを基調にした新しいデザインの駅舎だった。歩きつかれたので、待合室で少し休憩した。 そのあと駅前のインフォメーションで5・18関連の資料を入手。何と、光州駅前の広場も、光州事件のさいには市民の集会が開かれていた場所だそうだ。そして、タクシーで5・18墓地に向かった。かなりの距離があるようで、墓地まで20分くらいかかり、料金も10700ウォン とかなりかかった。
墓地の敷地に入ると、まず目に入るのが慰霊塔。その下には、事件のさいの市民の姿をあらわした像がある。
塔の後ろには、犠牲者の墓が並ぶ。事件のさいの犠牲者だけではなく、事件のさいの被害者で事件後に死亡した場合も希望すればここに葬られるようで、墓の用地として空いているところがまだかなりあった。 墓地の敷地内には、犠牲者を追悼して遺影を並べたホール、事件当時の写真を展示した記念館などがあった、下は記念館の入口付近。
写真の中には、人間がこんな姿になることがあり得るのか、というような残酷な姿に成り果てた写真もあった。その写真の展示コーナーの入口には、ハングル、英語とともに日本語で次のように書いてあった。
5・18墓地のすぐ近くに、望月洞墓地がある。光州事件の犠牲者もまず望月洞墓地に葬られ、2002年に国立の5・18墓地ができたので、移葬された。望月洞墓地は、光州事件とは関係なく、昔から大きな墓地としてあったようで、訪問した日はチュソク=お盆とあって、たくさんの人たちが墓参りにきていた。駐車場は満車で、入れない車が列をなしていた。
このあと、バスで市内中心部に戻った。900ウォンで、行きのタクシーの12分の1。さて、市内に戻れば、再び地下鉄に乗るので、錦南路を探さねばならない。バスに20分ほど乗車し たころ、錦南路を横断したようだ。それで、バスを下車。といっても、次のバス停まで乗らざるを得なかったので、少し歩いてバック。 午前中に5・18記念公園に行ったが、実はその近くに5・18自由公園もあることが、インフォメーションで得た資料からわかったのだ。最初からわかっていれば、5・18記念公園に続いて訪問したのだが、気づかなかったのだ。 再度、地下鉄に乗車して、今度は終点の尚武(サンム)駅で下車。今後、延長されるようだが、現在はこの駅どまりになっている。 下車後、20分ほど歩くと、高層住宅群の中に5・18自由公園があった。公園内の資料館では、光州事件当時の新聞や事件に関する地図などが展示されていた。
また、資料館とは別に、光州事件当時、逮捕者が収容された牢獄や裁判の行われた法廷などが残されている。
このあと、タクシーで国立光州博物館に向かった。全羅南道の文化についての展示がメインだ。木浦近くの新安の沖合い沈んだ交易船からとりだされた陶磁器などがみもの。
さらに、国立博物館の近くにある光州市立民俗博物館にも行こうと思ったが、時間切れのため果たせなかった。タクシーでバスターミナルに戻り、バスターミナル近くで旅館探し。 どこも似たような感じだったので、アジア荘というモーテルに入った。
韓国に多いラブホテルとヨグァンを兼ねたような宿だ。3万ウォン。大体、旅館、モーテルの一般的な値段だ。歯ブラシを受け取り、部屋へ。
1時間ほど休んだ後、夕食のために外出。すでに、日が落ち暗くなっている。市内の中心部にある店に行くことにする。バスターミナルから市内中心へ行くバスはいろいろあるだろうが、座席バスの1000番が覚えやすそうなので、覚えたおいた。やがて1000番がやってきた。一般のバスは900ウォンなのに対し、このバスは1000ウォンだ。その代わり、バスは観光バスタイプで、乗っている客が少ないから一般バスよりも快適だ。10分ほどで、錦南路に入る。道庁の手前のバス停で下車しようと思っていたが、降りそびれ、道庁前で下車。 この日の夕食は、無等山(ムドンサン)という店で、チュオタン(どじょうのスープ)を注文するつもりだった。しかし、チュソク休み。そのため、民俗村(ミンゾクチョン)という店でデジカルビ(豚肉の焼肉)を食べることにした。 店を移動する間に、光州事件の際、市民側の拠点になった、かつての光州YMCAの前を通った。今は、事件当時の建物は取り壊され、新たな建物に変わり、光州カトリックセンターになっている。
上の画像は現在のカトリックセンターで、右下のあたり、ビルの軒下に、光州事件の事件現場であることを知らせる碑がある。
道庁からすぐのところに民俗村はあった。デジカルビ2人分を注文。甘いたれで味付けされていて、味付けや見た目はカルビよりプルコキに似ている。閉まっている店も多いからなのだろうか、この店は大賑わいだった。
口直しには、ムルネンミョン。
錦南路の南側の通り。まったくソウルの明洞と変わらない風景がそこにはある。違うのは、この通りをはずれると寂しい感じなこと。また、この通りに関する限り、チュソクの休みなど関係ないって感じだ。 繁華街を往復した後、道庁前から1000番のバスでアジア荘モーテルに戻った。前夜は、夜行バスであまり休めなかったので、早めに休んだ。
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