2 日 目 前 半  金 門 島 一 周(前半)

 

  タクシーは9時に呼んでいる。5時に起きて、タクシーで回る順序を考えた。

  ガイドブックには金門島のことは、ほとんど掲載されていない。しかし、事前にネットの旅行記で見かけていたみどころはほかにいくつかある。さらに、ホテルで入手したパンフレットを見て、いままでに訪問した方の旅行記には掲載されていないが、行きたいと思うところがいくつかあった。

  7時前に訪問地を決定。そのあと、繁華街に繰り出した。朝食のためだ。

  ホテルから徒歩5分ほどの繁華街。夜は早くに人通りが少なくなっていたが、朝は、早くから賑わいを見せていた。

  とりわけ目立ったのは、道端にバケツなどを置いて、カキや貝類を売る人たち。

  道端で販売する人たちにとって、バイクはやっかいな存在だ。なにしろ、座っている顔のあたりにまともに、排気ガスがあたったりするので、、マスクをして、カキを売っている人もいた。

  カキの殻をむく作業は、ほとんど家の中で行われているのだろうか。ほとんど、殻をむいた状態のカキが売られている。

  そんな中で、カキの殻むき作業をしているところに遭遇。作業風景の撮影を断られたので、殻だけをパチリ。

  ここでは、カキと貝を売っていた。

  

  右は、魚を売っているところ。

 

 

 

 

 

  左は、魚丸(魚のすり身のダンゴ)を売っているところ。

  朝食には、広東粥を食べるつもりでいた。ホテルで入手したパンフレットで知って、ぜひ食べたいと思ったのだ。

  広東粥は、台北の夜市などで見かけて、知っていたのだが、食べるのは初めて。
金門島は広東粥も名物のようで、金門広東粥として知られているようだ。

  この粥。普通の粥をイメージして食べると、どこにご飯があるの?って感じになる。長時間、煮ているので、ご飯が全部溶けてしまって、スープ状になっているのだ。  

  そして、卵、魚のダンゴ、豚肉と豚レバーが煮込まれていて、ネギや香菜などがのっている。かなり栄養価の高い粥だ。

  さらに、油条を一緒に注文する客が多いようなので、自分も油条を頼んだ。油条は、揚げパンのようなものだ。

  これは、ちぎって、粥に浸して食べるのが流儀である。ただし、手が油だらけになるので、ティッシュパーパーでつつんでちぎる。

  粥50元(約200円)、油条6元(約24円)。 

  このあと、バスターミナルへ行って、翌日に利用する、水頭埠頭行きと空港方面行きのバスの系統と発車時刻を調べた。

  この日は、丸1日、タクシーをチャーターしていたが、本当は、路線バスを駆使したいところだ。バスの本数や停留所の位置、それに風獅爺探しをするために、タクシーにしたが、、

  だから、翌日は、路線バスに乗りたかったのだ。8時過ぎに、ホテルに戻り、少し休憩。

  9時ちょうどに、ドライバーがやってきた。ドライバーは、一般的なコースを考えたようで、ガイドブックにも掲載されているところをいくつか提案してきた。で、自分が考えていた、行きたいところを示すと、少々驚いた様子だった。自分の示した順番ではなく、順番は変えるということなので、ドライバーに任せる。  

  1時間300元で、8時間と確認。昼食代はこちらが持つので、安い海鮮料理の店に連れて行ってもらうようにも頼んだ。

  最初に訪問したのは中山林遊客中心。金門島は国家公園になっていて、その紹介をしている施設だ。

  でも、ここは期待ハズレ。すぐに退場することにした。

 

  ただ、興味深い衛星写真があった。右側の大きな島が金門島。その左に、小金門島。左側の大きな島は、厦門島。金門島の上部の小さい島は、中国側の島だ。

  金門島が、いかに中国大陸に近いかが改めて実感できる。また、厦門が金門島より市街地が多いこともわかる。

  次は、乳山故壘。内戦時の兵器の展示や、戦場の場面の再現などがおこなわれている。

  左は、日本製の高射砲。昭和14年製で、日本軍が残していったものを内戦時に利用したらしい。

 

 

 

 

  右は、内戦時に活躍した米国製の戦闘機。

  左の建物の2階が、下のようになっている。

 

 

 

 

 

  奥の塔状の建物は、貯水塔。

  次に、同じ敷地内にある蒋経国先生紀念館へ。

  蒋経国は、蒋介石の子。1910年生まれ。意外なことだが、青年期には蒋介石と対立し、1925年に共産党に入党にしている。1937年の西安事件を機に父親と和解し、国民党に移る。その後は、軍事部門を中心にして、影響力を拡大。1969年に蒋介石が事故で表舞台から去ったあと、事実上の台湾の最高指導者となった。1978年に総統就任後、民主化をすすめ、1987年、戒厳令を解除。1988年に死去。後継が副総統の李登輝であった。

   瓊林地区古建築。瓊林地区は、古いが建物の保存されている集落である。ここは、地下坑道を見にたちよった集落だが、独特の屋根を持つ建物群を見て回った。右は、蔡守愚専祠。

 

 

 

 

 

  保護廟の裏側。屋根は赤瓦で最上部が曲線になっているのが特徴だ。最近、修復工事が行われたようで、外壁はとてもきれいだ。

  一般の民家の外壁も修復されたようだ。赤壁で赤瓦。遠く離れた沖縄と共通点がみられるのが興味深い。

 

 

 

 

 

  左は、瓊林地区で見た風獅爺。特に左側のは、壁に埋めこまれたタイプのもの。

  瓊林地下坑道。この地区には、完全な形で地下の防空壕が残されている。

 

 

 

 

 

 

  上の建物に入ると、すぐに地下に降りるようになっている。左は発電機。

 

 

 

 

  右は、作戦室。現在は展示室になっていた。

  展示室に掲げられていたスローガン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  展示室のあとは、延々と続くトンネルを歩いた。幅は1mくらい。途中に、分岐や部屋があたった。迷いはずはないのだが、不安になる。500mくらい歩いた。

  陳禎墓。明代の人の墓。墓の入口の左右をシーサーか狛犬のようなものが守っている。小さく乗車したタクシーも写っている。

 

 

 

 

 

  右は、シーサーか狛犬のようなものの拡大。

  左は、陳禎墓の近辺で見た風獅爺。

 

 

 

 

 

 

  西園塩場の跡。1995年まで天日製塩がおこなわれていたが、廃止になった。

  今は、アーチの文字だけが製塩場の跡であることをうかがわせる。ここは、新しい建物が建築されて、製塩が行われていたことも、わからなくなっている。

 

 

 

 

  

  右は、西園塩場近くで見た風獅爺。

  西園抗日紀念碑。ここは、ドライバーに訪問するように頼んだわけではなのいのだが、連れて行ってくれた。見せたかったのだろう。

  車の中から撮影したのだが、今となっては、下車して、どんな抗日運動があったのか、確かめておきたかったなぁと思う。記念碑の一番上には、見えにくいが、国民党の青天白日のシンボルマークがかかげられている。

  下は、この付近で見つけた風獅爺。

 

  次に、金門島の最北端にある馬山観測所へ。

  駐車場の片隅に左のような看板が、、

 

  

 

 

 

  駐車場から観測所に向かう途中の道路沿いには、右のような掲示。軍事施設が森の向こうにあるためだろうか。

  観測所の手前にあった馬山播音站。つまりは放送局。かつて大陸向けに宣伝放送をここからやっていたのだろう。ここを過ぎると、観測所。手前にスローガン。 

  いよいよ観測所。何の観測所なのか、、

  おそらく、ここから中国側を監視するって意味で観測所というのだろう。ただし、今は

島観光地になっていて、監視はほかの軍の施設で行っていたようだ。


 

 

 

 

  中国側を監視する部屋。今は、望遠鏡が置かれた、観光客が中国側を見られるようになっている。

  中国側の観光客を乗せたモーターボートがすぐ近くまでやってきていた。

  対岸は中国側の大璵島か。

  さらに、山后民族文化村へ。福建省の伝統建築を集めてつくったテーマパーク。1990年につくられたので、建物はみなきれいだ。

 

 

 

 

 

  

  18棟の民家のほか、廟なども建てられている。

  手前の民家は食堂になっていた。ここで、休憩し、石花水を飲んでみた。

  石花は、海草の一種。その海草のエキスを含んだ飲み物のようだ。

 

 

 

 

  すでで1時だったが、もう少しすすんでから昼食だ。ドライバーに頼んでもらった海鮮料理店がまだ先だからだ。

 

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