2 日 目 後 半 金 門 島 一 周(後半)
次に、西山前李宅へ。西山前という集落の李さん宅で、現役の住宅だ。屋根が独特のカーブをしていて、赤瓦を使っている。 この建築は、幢合院建築といって福建省の伝統建築らしい。
建物のそばには、防火用のポンプが設置されていた。伝統建築保護にかなり気をつかっているような感じだ。 |
|
陳健墓。さきに陳禎墓を回っているが、その子の墓である。
墓のすぐそばで、タケノコが飛び出ていた。そばの竹は黄色くなった老竹なのだが、新しい竹ができてきたことに驚いた。
|
|
陳氏家廟。陳氏がかなりの力をもっていたことがわかる。工事中で、中には何も置かれていなかった。
すぐ近くに自転車専用道路があり、その入口に置かれている守り神。まるでシーサーだ。とてもかわいらしい。 |
|
陳健墓、陳氏家廟の近くにも、風獅爺たちが立っていた。 |
|
八二三戦役勝利記念碑。 金門島での国共両軍の激しい地上戦は、二度あった。1回目は、1949年の国共内戦の最後にあった戦い。 2回目。1958年に、当時、大陸沿岸にいくつか残されたいた国民政府側の支配下の島々に対して、共産側が支配権を奪おうと戦いを起こした。いくつかの島は共産側が確保した。 その一環で、8月23日から激戦が展開されたが、金門島は国民政府側が死守した。その記念碑。 このときに、44万発の砲弾が金門島に打ち込まれたが、その砲弾は、金門名物である包丁の原料として使われている。 この後、金門島の要塞化がはかられた。砲撃合戦は1978年の米中国交樹立まで続いた。
|
|
ようやく昼食。すでに13時 を過ぎていて、ハラペコ状態。 ドライバーまかせでやってきたレストランは、金門島の東南部、台湾海峡に面した側の集落である復国墩にある阿芬海産。このレストランの客以外は、外来者がやってこないような寒村にある。 値段は、高いのか安いのかよくわからない。一皿200元内外の料理がほとんどだ。ドライバーは遠慮して何も言わない。自分も見栄があってか、結局5品頼んだ。 |
|
海瓜子(あさり) | 豆陰海蚵(カキと臭豆腐) |
鳳梨蝦球(えびダンゴ 下にパイナップル) | 炒沙蟲(海岸に生息する虫の炒めもの) |
沙蟲は、海岸の砂の中などに生息する星虫の一種。虫といっても、昆虫ではなく、無脊椎動物のひとつで、みかけは、ミミズのような感じだ。 あさり、カキ、えびダンゴは一生懸命食べて、ドライバーにも勧めて、ほとんど食べられたが、沙蟲はあまり食が進まなかった。魚丸湯も、少し食べただけ。 注文しすぎたかな。しめて、980元(約3900円)。この旅では、最大の贅沢だった。 |
|
魚丸湯 |
|
レストラン近くの海岸。こちらは、澎湖諸島の方角で、島などは見えない。
石花が干してあった。これが海草とは、、ここから、透明のコンニャクのような石花になるとは想像しがたいことだ。 |
|
八二三戦史館。 八二三戦役にポイントをしぼった展示館。
この戦役で共産側から打ち込まれた砲弾。この戦いの推移などがよくわかるように展示されていて、また、 国民政府側の勇敢さが強調されている。 |
|
ここの売店でアイスを買った。アイスは金門県の畜産試験所で作っている製品のようだ。 鮮乳百香果、パッションフルーツのミルクアイス。 あっさりしていて、美味しかった。 牛の顔がかわいらしいデザインだ。
屋外には、戦役当時の、陸・海・空の兵器が展示されている。 この戦車は、 米国製のM25戦車。アイスの画像の背後にも、当時の戦闘機がちらっと、、 |
|
続いて、金門陶瓦場。 時間がないので、建物には入らず、外側からちょこっと見学。
博物館兼土産物屋があり少し見学した。たいへん手の込んだ作品だ。 |
|
こちらは、砲弾型の陶器。
左は、昼食のレストラン近く、右は、陶瓦場の近くに立っていた風獅爺。 |
|
続いて、邸良攻墓。リクエストしなかったが、立ち寄ってくれた。
墓を人間、馬、猿、羊が守っている。上の画像の両端に小さく見える。上の中のは、そのうちの馬。右は、この付近の風獅爺。 |
|
古寧頭戦史館。島の北西の角のところ。ここは、八二三戦役のときに、共産軍が上陸したところで、ここを中心に島の8分の1ほどを占領したという。 古城の雰囲気をもった戦史館。その前には、兵士の彫像。
ここでの戦いは、国民政府側の勝利に終わる。蒋介石が、戦いに勝った兵士を閲兵するのに利用したジープ。 |
|
降伏する共産軍を描いた絵。このほか、自画自賛的な絵がたくさん並んでいる。
右は北山古洋楼。共産軍はここを指令所にしたが、激しい戦闘で 国民政府側が奪い返した。銃弾の跡がなまなましく残っている。 |
|
振威第。詳しいことは不明。
水尾塔。こちらも何なのかわからず。 |
|
島の北西部にある展望台に立ち寄った。中国側を見ることはできなかった。 海岸線には、上陸防止用の鉄条網がしてあって、地雷も設置してあるようだ。 右は、島のいたるところに見られた、空挺部隊の着陸を阻止するための柱。 柱の先をよく見て欲しい。柱の先端には、枝分かれした針がついている。場所によっては、この柱が10mおきくらいに立ててあった。 左は、島の北西部にあった風獅爺。 |
|
翟山坑道。ここは、上陸用の舟艇が隠されていたところだ。1961年から5年間かけてつくられたという。 右の図で、青くなっているところが、海岸に出入口があるトンネル。このトンネルの中に、舟艇が24隻隠されていたという。 現在位置のところから、まっすぐ進み、トンネル内では、両方の出入口を往復した。現在は、トンネル内を歩けるように通路が設けられている。 |
|
こうしたところでは、スローガンがいき続けている。「母忘在莒」は、燕に攻められ、莒が滅亡の危機に際したとき、逆転して勝利した故事にちなみ、今、自分たちが莒にいることを忘れるな、と戒めている。 |
|
トンネル内。
トンネルの出口。 |
|
ここに隠されていた上陸用の舟艇。 現在は、こうした攻撃用の兵器は島から撤去されて、防衛用のものだけになっているという。
旧金城は明時代の島の中心地。ここにも城郭があった。右は北門。これだけが、かつての旧金城を今に伝えている。 |
|
水頭地区には、伝統建築と20世紀初頭の洋風建築が残っている。 左は、得月楼。1931年の建造。
右は、金水国民小学。洋館風で平屋建ての建物は何だろうと思ってみたら、小学校だった。 |
|
延平郡王祠。鄭成功をまつっている。建物内には、鄭成功の像がある。
金城近くで見た風獅爺たち。 |
|
ホテルに戻ると、17時30分。8時間30分のチャーターだったので、2550元。これにチップ250元を加えて、2800元(約11000円)を払った。 1時間ほど、部屋で休憩。大急ぎで金門島を回ったが、タクシーを使っても、なかなか大変だった。とはいえ、バスでは到底、無理なコースを回ることができた。 夕食に外出。砲弾から包丁を作っている鍛冶屋を発見。まさに、砲弾が包丁になっていて、びっくり。 |
|
こちらは、昔ながらの薬局。 夕食は、極品鯛魚鍋に、蝦丸と魚餃をトッピング。135元(約540円)。
とてもにぎわっていた店だったが、8時ごろに店を出ると、もう人通りが少ない寂しい街になっていた。コンビニで飲み物を買ってホテルに急いだ。 |