2 日 目 廬 山 温 泉 ・ 霧 社 ・ 埔 里
廬山温泉で入浴 |
![]() ここのホテルでは、朝食時にレストランに行くと、卵型のマスコットを渡される。これをテーブルの上に置いて、席取りをしてからビュッフェをとりに行ってくださいってことで、なかなかいいアイデアだ。 ビュッフェ1回目。ご飯に豚肉のそぼろをかけて魯肉飯にできるのがよかった。 |
![]() フルーツにパッションフルーツとドラゴンフルーツがあったのが珍しい。 食後、いったん部屋に戻ったのち、すぐに出発。 |
![]() ![]() 南投客運のバス乗場へ。台中車站から1kmほど離れたところにあり、バス会社の前から出発する。切符も販売しているが、悠悠カードで乗車できるので、カードを利用した。 |
![]() 下左 バス車内。客は十数人ですいていた。国道6号はバイパスで途中の停留所もなくスイスイ走った。 下右 埔里のバスターミナルに定刻に到着。 |
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![]() やってきたのは何とミニバスだった。そこそこ客がいて、何とか座れたのだが、立席客もいた。もっとも大半は10分くらい乗って次々に下車していったのだが。半分の客は霧社まで乗車。霧社で時間調整で少し停車した。霧社から先は、すぐに下車した客を除くと、自分とあと1人が廬山温泉まで乗車した。 下左 埔里・廬山温泉の行先表示。 下右 このようなミニバスでも無料WIFIが利用できる。 |
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![]() 吊橋を渡り、対岸の蒋公行館と公共浴池を見て、引き返し、ここのすぐそばにある名廬假期大飯店で入浴。ただし、公共浴池または別のホテルで入浴することも状況によってありと考えた。 |
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![]() ![]() 左 吊橋。廬山温泉を象徴するような吊橋だ。 上 吊橋の上。 |
![]() 下左 吊橋を渡り、左折したあたり。細い道路の両側にホテルや土産物屋が並ぶ。 下右 蒋公行館。蒋介石の別荘だったとか。日本統治時代には警察招待所だったということで、日本家屋になっている。 |
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![]() さらに、ここから奥のほうへ歩いていくと、山道になり、やがて源泉が出ている温泉頭があるのだが、片道15分歩くと、入浴は無理になるので今回はあきらめ、入浴を優先することにした。 |
![]() フロントで300元払って風呂に向った。玄関から入って、下の階に下りていく。わかりにくい経路なので、風呂まで案内してくれた。水着着用の温泉だ。 |
![]() 下左 ジャグジー風呂。なかなか気持ちよかった。 下右 打たせ湯。パイプから猛烈な勢いで湯が出てくる。当たると気持ちよかった。 最後に、脱水機が置かれていたので、水着を脱水することができたのがよかった。 |
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![]() 一口で食べられる餡入りの餅で、6色あって、3個づつ計18個が1箱に詰められた。200元。 |
霧社事件の跡をめぐる |
![]() 下左 乗客は自分以外には子供連れの客が1組だけ。 下右 行きのミニバスはなんとか座れたものの、座り心地がよくなく、景色を楽しむ余裕がなかった。今度は景色をよく見ることができ、山深きところを走っていることがよくわかった。 |
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![]() 霧社事件は日本統治時代の台湾で最大の抗日事件としていわれる。1930年10月27日、霧社公学校の運動会に集まっていた日本人を、原住民セデック族の集団が襲撃し、百数十人を殺害。襲撃のリーダーはモーナルーダオであった。総督府は鎮圧部隊を送り、原住民に多くの死者と逮捕者を出し、モーナルーダオも自殺した。さらに、原住民の中で日本人に協力する人たちが逮捕されている人たちの収容施設を襲撃した。日本側はこの襲撃を認めていた。生き残った原住民も移住させられた。 なお、セデック族はタイヤル族に属しているとされてきたが、2008年になって、独自の民族だと台湾政府が認定した。 |
![]() 店頭には野菜が無造作に置かれていている。野菜も売っているようだ。野菜の料理も得意なのかもしれない。 |
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![]() 食事後、集落の探索に出発。 |
![]() 下左 霧社事件で襲撃する原住民の像。「霧社原住民抗日群像」とある。 下右 「抗日英雄 莫那魯道 (モーナルーダオ)」の像。 日本統治時代、この場所には日本人の殉難記念碑などがあったのだが、蒋介石時代に抗日記念碑が建つ公園になったようだ。 |
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![]() 上右 「莫那魯道烈士之墓」。モーナルーダオの墓。 台湾で「抗日」の文字を見かけることは普段はないが、ちょっと陰鬱な気分になる。以前「抗日」の文字を見たのは金門島(リンク先ページの真ん中から少し下に写真)でであった。 左 霧社事件のあった公学校の跡。現在は台湾電力の用地になっていて、門の外側から撮影した。 |
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![]() 鳥居があるが、もともとあったのではなく、中国風のものになっている。この上にはかつて霧社神社があった。 真偽不明だが、この階段に事件のさい、犠牲になった日本人が並べられたとか、鎮圧後殺された原住民の首がいかれたとかいう情報もある。 |
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埔里で台湾地理中心へ |
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![]() この建物の1階は土産物店、2階が酒文化館になっている。 下左 酒文化館の展示の中にあった9.21紀念酒。9.21は1999年にあった地震で、20世紀になってからでは、台湾で最大の地震であった。南投県の集集付近を震源とし、震源に近いここ埔里も大きな被害を受けた。 |
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![]() 左 最後に紹興酒アイスをいただいた。紹興酒の味がほんのりとするかしないかといったところ。 17時までが営業時間で、やってきたのが16時20分ごろだったので、駆け足での滞在になった。休日だったので紹興酒の瓶詰作業のラインは停止していたのが残念だったが、まぁ満足。 |
![]() ガイドブックを見てやってきたところに店がなく、あきらめかけたのだが、移転先を書いた地図を発見してたどり着くことができた。 店外の左手にあるカウンターで注文と支払いを行う。そのあと店内に入って待てばよい。17時半。 |
![]() 注文と支払いのあと、手元には伝票や半券が渡されないので、どうやって客を区別しているのだろうか。心配していたら、間もなく料理が運ばれてきたのだが。 |
![]() 麺はやや太麺で、コシはない。スープはとてもあっさりしている。 |
![]() 油豆腐は臭豆腐と同じなのか違うのかよくわからなかった。 |
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![]() 上右 実は測量の結果、少し中心の位置が変わっていて、そちらのほうへも行ってみる。 左 新しい中心はちょっとした丘の上にある。石段を延々と上がる。なかなか大変だ。もう終わりかと思えば、新たな石段が現れるありさま。15分ほどかけて石段の最上部までようやく上がれた。 下左 新しい地理中心。中央の塔が中心の石碑。新しいといっても、こちらも日本統治時代のもので1906年に建てられたようだ。 下右 中心の石碑の下部。このとき、18時半ごろで、ちょうど日が沈んだ。石段には街灯はなく、かなり暗くなったので大急ぎで石段を下りた。 |
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![]() 下左 19時半ごろにバスターミナルに到着。長い行列ができていたので、並ぶ。 下右 20時発のバスで台中に戻る。長い行列は別のバスを待っている人たちだったようで、台中行きは十名ちょっと乗っただけだった。 |
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![]() 上右 地下道を通って、駅の裏側に向う。間もなく新駅ができて、地下道は閉鎖されるので、この地下道を通るのも最後だ。 左 コンビニでおでんとビールを買って、ホテルでいただいた。 下左 廬山温泉で買ったもちを食べる。蒋院長とあるが、蒋経国のことらしい。蒋経国が好んでいたのか。 下右 5色のもちがきれいに並んでいる。チョコ、黒砂糖、さくら、黒あん、抹茶、ごま。半分ほど食べ、残りは翌日のおやつとする。 |
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