2 日 目  廬 山 温 泉 ・ 霧 社 ・ 埔 里

 

廬山温泉で入浴
 ホテルの朝食。8時すぎのバスに乗車したいので、7時にレストランへ向かった。

 ここのホテルでは、朝食時にレストランに行くと、卵型のマスコットを渡される。これをテーブルの上に置いて、席取りをしてからビュッフェをとりに行ってくださいってことで、なかなかいいアイデアだ。

 ビュッフェ1回目。ご飯に豚肉のそぼろをかけて魯肉飯にできるのがよかった。
 ビュッフェ2回目。焼きそばはほとんど焼うどんのような見た目で、味はちょっと台湾風であるが、あっさりしていて、醤油味じゃないけど日本風ともいえる。

 フルーツにパッションフルーツとドラゴンフルーツがあったのが珍しい。

 食後、いったん部屋に戻ったのち、すぐに出発。
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 
     南投客運のバス乗場へ。台中車站から1kmほど離れたところにあり、バス会社の前から出発する。切符も販売しているが、悠悠カードで乗車できるので、カードを利用した。
 
   6670番の台中・埔里(国道6号経由)に乗車。干城站(このバス停の名)を8時20分に出発し、台鉄台中站、高鉄台中站を経て、埔里に9時30分に到着する。台鉄台中站から乗車してもよかったのだが、バス停はわかっているが停車位置がよくわからず、大きなバス停のため始発の干城站にやってきた。

 下左  バス車内。客は十数人ですいていた。国道6号はバイパスで途中の停留所もなくスイスイ走った。

 下右  埔里のバスターミナルに定刻に到着。
 埔里からは6661番のバスで廬山温泉に向う。10時発で霧社を経由して廬山温泉には11時10分着。

 やってきたのは何とミニバスだった。そこそこ客がいて、何とか座れたのだが、立席客もいた。もっとも大半は10分くらい乗って次々に下車していったのだが。半分の客は霧社まで乗車。霧社で時間調整で少し停車した。霧社から先は、すぐに下車した客を除くと、自分とあと1人が廬山温泉まで乗車した。

 下左  埔里・廬山温泉の行先表示。

  下右  このようなミニバスでも無料WIFIが利用できる。
   廬山温泉着は11時10分。帰りのバスで適当な時間のは13時発だ。それまでの間に、このエリアを一通り散歩して、そのあと入浴する。帰りのバスの10分前にはこのバス停に戻るとして、1時間40分でどう行動するか、案内図を見て考えた。

 吊橋を渡り、対岸の蒋公行館と公共浴池を見て、引き返し、ここのすぐそばにある名廬假期大飯店で入浴。ただし、公共浴池または別のホテルで入浴することも状況によってありと考えた。
 
 バス停から歩き出してすぐの場所。この右手に入浴した名廬假期大飯店がある。道の突き当り付近の白い建物の前を右折すると吊橋がある。突き当りまでは2,3分であった。
 
 
 
 
 
 
 




 
 



 
 左  吊橋。廬山温泉を象徴するような吊橋だ。

 上  吊橋の上。
 
 
 吊橋の上から川の下流側を見る。左岸はコンクリートの壁があるが、以前、土石流で大きな被害を受けたので、その対策で設けられたのだろうか。

 下左  吊橋を渡り、左折したあたり。細い道路の両側にホテルや土産物屋が並ぶ。

 下右  蒋公行館。蒋介石の別荘だったとか。日本統治時代には警察招待所だったということで、日本家屋になっている。
 
 
 公共浴池。最近は使われていないようだった。外観も中も日本家屋だったので、日本統治時代から使われていた建物と思われる。

 さらに、ここから奥のほうへ歩いていくと、山道になり、やがて源泉が出ている温泉頭があるのだが、片道15分歩くと、入浴は無理になるので今回はあきらめ、入浴を優先することにした。
 
 バス停のそばの名廬假期大飯店に戻ってきた。11時40分でここの風呂では1時間ほど滞在できる。

 フロントで300元払って風呂に向った。玄関から入って、下の階に下りていく。わかりにくい経路なので、風呂まで案内してくれた。水着着用の温泉だ。
 
 浴場。1時間弱、入浴していたのだが、前半は自分以外に誰も入浴しておらず、最初に写真を撮影してから入浴した。後半は入浴客が三々五々現れた。

 下左  ジャグジー風呂。なかなか気持ちよかった。

 下右  打たせ湯。パイプから猛烈な勢いで湯が出てくる。当たると気持ちよかった。

 最後に、脱水機が置かれていたので、水着を脱水することができたのがよかった。

 
 
 
 ホテルを出ると、バスの時刻まであと20分ほどあった。それで吊橋のたもとまで再び向い、名物の『桜花小米[米麻][米薯]』を買っていくことにした。( [  ]の文字は2字並べて1字)

 一口で食べられる餡入りの餅で、6色あって、3個づつ計18個が1箱に詰められた。200元。

 
霧社事件の跡をめぐる
  13時発の埔里行きのバスで霧社で下車する。バス停には5分前に到着。帰りもミニバスだろうと思っていたら、大型バスだったのでびっくりした。

 下左  乗客は自分以外には子供連れの客が1組だけ。

 下右  行きのミニバスはなんとか座れたものの、座り心地がよくなく、景色を楽しむ余裕がなかった。今度は景色をよく見ることができ、山深きところを走っていることがよくわかった。
 
 
 20分ほどで霧社に到着。時間調整することもなく、すぐに埔里に向けて出発していった。写真の左下にバス停がある。写真は廬山からやってきた方向を向いて撮影した集落の中心部だ。ここでは、霧社事件の関係地を見て回る。

 霧社事件は日本統治時代の台湾で最大の抗日事件としていわれる。1930年10月27日、霧社公学校の運動会に集まっていた日本人を、原住民セデック族の集団が襲撃し、百数十人を殺害。襲撃のリーダーはモーナルーダオであった。総督府は鎮圧部隊を送り、原住民に多くの死者と逮捕者を出し、モーナルーダオも自殺した。さらに、原住民の中で日本人に協力する人たちが逮捕されている人たちの収容施設を襲撃した。日本側はこの襲撃を認めていた。生き残った原住民も移住させられた。

 なお、セデック族はタイヤル族に属しているとされてきたが、2008年になって、独自の民族だと台湾政府が認定した。
 
 
 集落の探索の前に、バス停のそばの食堂で昼食をとることにした。

 店頭には野菜が無造作に置かれていている。野菜も売っているようだ。野菜の料理も得意なのかもしれない。

 
 
 店内の様子。13時半ごろで昼のピークを過ぎて、客足が途絶えたところかもしれない。
 
 焼飯。
 
 青菜。野菜をこれだけ食べるのはちょっと苦労する。美味しいのだが、単調すぎて食べきれなかった。

 食事後、集落の探索に出発。
 
 集落の東の郊外、徒歩10分ほどの場所にあるモーナルーダオの墓や霧社事件の記念碑がある場所にやってきた。

 下左  霧社事件で襲撃する原住民の像。「霧社原住民抗日群像」とある。

  下右  「抗日英雄 莫那魯道
(モーナルーダオ)」の像。

 日本統治時代、この場所には日本人の殉難記念碑などがあったのだが、蒋介石時代に抗日記念碑が建つ公園になったようだ。

 
 
 
 
 上左 「霧社山胞抗日起義紀念碑」。ここにかつては日本人の殉難記念碑があったようだ。

 上右 「莫那魯道烈士之墓」。モーナルーダオの墓。

 台湾で「抗日」の文字を見かけることは普段はないが、ちょっと陰鬱な気分になる。以前「抗日」の文字を見たのは金門島(リンク先ページの真ん中から少し下に写真)でであった。

 左  霧社事件のあった公学校の跡。現在は台湾電力の用地になっていて、門の外側から撮影した。
 
 公学校跡の近くに、かつては霧社事件で犠牲になった日本人の墓があった場所がある。今は墓はない。蒋介石時代には日本人は入ることができなかったようだ。
 
 いったん集落に戻り、昼食を食べた食堂やバス停の前を通って、集落の東の端までやってきた。

 鳥居があるが、もともとあったのではなく、中国風のものになっている。この上にはかつて霧社神社があった。

 真偽不明だが、この階段に事件のさい、犠牲になった日本人が並べられたとか、鎮圧後殺された原住民の首がいかれたとかいう情報もある。
 
 階段を上がったところには中国風の廟がある。下を見るとダムによってできた碧湖と霧社の集落がよく見える。
埔里で台湾地理中心へ
  15時発の埔里行きバスに乗車する。大型バスだった。
 
 50分ほどで埔里着。街歩きに出発。まずは埔里酒廠へと向かった。途中、この街の中心であろうと思われるロータリーでは酒壺が並べられていた。
 
  30分ほど歩いて埔里酒廠に到着。台湾を代表する紹興酒の産地だが、その製造所がここ埔里酒廠だ。

 この建物の1階は土産物店、2階が酒文化館になっている。
 
 下左  酒文化館の展示の中にあった9.21紀念酒。9.21は1999年にあった地震で、20世紀になってからでは、台湾で最大の地震であった。南投県の集集付近を震源とし、震源に近いここ埔里も大きな被害を受けた。
 
 
 上左  展示コーナーの一角にあった酒壺のトンネル。先に何があるか、ちょっとした期待感がある。

 左  最後に紹興酒アイスをいただいた。紹興酒の味がほんのりとするかしないかといったところ。

 17時までが営業時間で、やってきたのが16時20分ごろだったので、駆け足での滞在になった。休日だったので紹興酒の瓶詰作業のラインは停止していたのが残念だったが、まぁ満足。
 
   胡國雄古早麺。

 ガイドブックを見てやってきたところに店がなく、あきらめかけたのだが、移転先を書いた地図を発見してたどり着くことができた。

 店外の左手にあるカウンターで注文と支払いを行う。そのあと店内に入って待てばよい。17時半。
 
 店内の様子。移転前は小さな店だったようだが、こちらの店はかなり大きい。

 注文と支払いのあと、手元には伝票や半券が渡されないので、どうやって客を区別しているのだろうか。心配していたら、間もなく料理が運ばれてきたのだが。
 
 切仔麺(湯、小)40元。「湯」と「乾」があり「湯」にしたが「乾」も気になる。ほかのおかずも食べたかったので、小にした。

 麺はやや太麺で、コシはない。スープはとてもあっさりしている。
 
 魯蛋(煮たまご)10元と油豆腐(厚揚げ)30元。

 油豆腐は臭豆腐と同じなのか違うのかよくわからなかった。
 
 
 上左  30分ほど歩いて、台湾地理中心へ。ここが台湾のヘソなのかと感慨にふける。

 上右  実は測量の結果、少し中心の位置が変わっていて、そちらのほうへも行ってみる。

 左  新しい中心はちょっとした丘の上にある。石段を延々と上がる。なかなか大変だ。もう終わりかと思えば、新たな石段が現れるありさま。15分ほどかけて石段の最上部までようやく上がれた。

 下左  新しい地理中心。中央の塔が中心の石碑。新しいといっても、こちらも日本統治時代のもので1906年に建てられたようだ。

 下右  中心の石碑の下部。このとき、18時半ごろで、ちょうど日が沈んだ。石段には街灯はなく、かなり暗くなったので大急ぎで石段を下りた。
 
 
 埔里の中心部。地理中心からバスターミナルまでは歩いて1時間近くかかった。周囲はもう真っ暗。

 下左  19時半ごろにバスターミナルに到着。長い行列ができていたので、並ぶ。

 下右  20時発のバスで台中に戻る。長い行列は別のバスを待っている人たちだったようで、台中行きは十名ちょっと乗っただけだった。
 
 
 
 上左  21時ごろ台中に到着。バスを降ろされたのは駅の横。

 上右  地下道を通って、駅の裏側に向う。間もなく新駅ができて、地下道は閉鎖されるので、この地下道を通るのも最後だ。

 左  コンビニでおでんとビールを買って、ホテルでいただいた。

 下左  廬山温泉で買ったもちを食べる。蒋院長とあるが、蒋経国のことらしい。蒋経国が好んでいたのか。

 下右  5色のもちがきれいに並んでいる。チョコ、黒砂糖、さくら、黒あん、抹茶、ごま。半分ほど食べ、残りは翌日のおやつとする。
 

 

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