2 日 目 前 半
ドイ・トゥン・パレス、アカ族の村
一夜明けて、疲れはすっかりとれた。朝食は7時から。自分がこの朝、最初の客だったようで、レストランに入っていったら、あわてて準備をしていた。 この日は、前日と同じく、Jトラベルの世話になり、ツアーでチェンライ郊外を見て回る。前日行ったところは、路線バス利用でも十分回れるし、時間の余裕があれば、路線バスを利用したかったコースだ。一方、この日のコースは、路線バスが通っていないところを回る。だから、ツアーで回るか、車をチャーターしないと、回るのが難しい。
出発時間は8時30分。車とガイドは早めにやってきた。この日は、前日一緒だった米国人に加えて、オランダ人夫妻が同行するとのこと。参加者4人となったため、かなりの額の返金がなされた。 やがて、3人は、別の車で、他のホテルから運ばれてきて合流。 車は一路、北上。10分ほど走ったところに空港への分岐があった。このあとしばらくは、前日と同じコースとなる。
かなりメーサイの近くまで行ってから、ミャンマーとの国境の少し南側を進んだ。ドイ・トゥン・パレスまでは舗装された道路だが、走っている車はとても少ない。 パレスが近づいてくると、どんどん坂道を上がっていく。また、現在も王室の離宮の役割を果たしているため、検問所が何箇所か設けられている。
出発から1時間。山奥に突然、大きな建物と駐車場が現れた。 右の建物は、管理施設でインフォメーションやレストランがある。 ここにあるのは、故皇太后の離宮、それにその庭園を利用したフラワーガーデンだ。
フラワーガーデンは手入れが行き届いており、さまざまな色の花々が咲き乱れていて、とてもきれいだ。 いままで見た植物園のなかでも、「鮮やかな色の花を見せる」ということに目的を限れば、ここほどきちんと整備され、美しく花々を見せることができているところはなかった。 もともとは、スイスがお気に入りだった故皇太后が、スイスに似せて、離宮と庭園をつくられたということだ。
温室の中では、苗がビンに入れられて、大量に育てられていた。
左は、葉の先から花が咲いているのは、チランジア(別名 ハナアナナス)。
フラワーガーデンに続いて、離宮を訪れた。故シーナカリン皇太后(現国王の母)が亡くなった1995年まで 住まわれていた建物である。 タイ北部の伝統的な様式にスイス風のデザインを取り入れたもので、1988年に完成した。 建物の壁面はコンクリートの上にチーク材が張ってあり、見た目には木造のように見える。ここでは、寝室、応接間、キッチンなどを見たが、内部の写真撮影は禁止されていた。
左は、玄関。この右側に、参観客用の入口があり、そこで履物を脱いで入場する。
右は、テラスからの眺め。遠くに見える山々はミャンマーとの国境になっている。
左は、飲み水なのだろうか。ミャンマーでは、道路沿いに置かれた壷の水を誰でも飲めるようになっていたけど、、
右は、チケットチェックの場所。半ズボンだった米国人は、ここで備え付けのズボンをはかされて入場し、ここで脱いで返していた。 故シーナカリン皇太后 (現国王の母)は、この地を静養の地とするとともに、この地域の振興プロジェクトを手がけ、亡くなった現在でもプロジェクトは続けられている。 この地の山岳民族は、かつて麻薬の原料のけしの栽培を行い、その畑を確保するために焼畑を行っていた。麻薬の生産のために緑が失われていたのだ。それで、故皇太后は、麻薬栽培と焼畑をやめさせ、ココナッツやコーヒーの栽培をひろめられたという。また、焼畑の跡地の植林にも力を入れられた。 皇太后の死後も遺志が受け継がれ、タイ政府によれば、タイでは麻薬生産は根絶されたという。また、2003年には焼畑も行われなくなった。皇太后の記念館もこの近辺に建設されたという。残念ながら、今回のツアーコースには、記念館は含まれていないのだが、またチェンライを訪問することがあれば、訪れてみたい場所だ。 また、植林事業や観光開発は、山岳民族に雇用の場を与えることになり、彼らの生活向上に意義を持っているとのことだ。
さて、このあと、2時間かけて、メーサロンに向かった。 この途中の一部区間にすごい悪路があった。左のような、道の連続、時速10kmほどしかだせない。移動距離は、さほどのことはないと思われるが、時間はかかった。
途中、アカ族の村に立ち寄った。見た目には、ほかの村の様子と変わりはない。 国王の肖像が村の一番目立つところに掲げてある。どこの村でも見かける風景だ。実は、撮影している自分の背後に、土嚢を積み上げた陣地があり、兵隊が銃を握っていた。
アカ族は、村の入口に鳥居のようなものを作る。左の画像は、上の画像の国王の肖像画のすぐ裏側なのだ。鳥居の右に見える家は、上の画像で肖像画の後ろに写っている家と同じ家である。 鳥居のようなものを作る目的は、村に悪いものが入ってこないようにするためだと言われている。また、鳥居は、触れたり近づいてはいけないとされ、鳥居の周囲には柵がしてあった。悪いものに触れるのは危険だからという理由だからだ。
ガイドに連れられて、村の中を歩いた。
この村の人たちは民族衣装姿ではない。ありにままの山岳民族を見ることができて良かった。
アカ族の女性は、民族衣装を着ると、装飾品をたくさん身につける。装飾のほどこされた帽子はかぶとのようである。だが、この村で見ることができるアカ族の人たちは普段着の生活であった。 右は、せんべいのような保存食を作っているところ。葉っぱの上に、練った材料を平たくして乗せている。これを日にあてて干すようだ。 このあと、メーサロンへ、再び悪路を通って向かった。
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