8 日 目 フ ォ ー ト ・ コ ー チ ン
チャイニーズ・フィッシングネット |
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![]() 上右 朝食券だった。なくても部屋名を言えばいいんだろうけど、気づいてよかった。 左 1階へ下りて、朝食会場を探したがわからず、フロントで尋ねると、いったん玄関を出て、左手にあるという。ちょっと面倒だ。行ってみると、そこそこ立派なレストランだった。ここも、昔は一流ホテルだったという痕跡といえる。 |
![]() とったのは、左下から右上へ、チャパティ、ウッタパム、ウプマ、ワダ。右上はゆで卵。カトリに入ったカレー類は、左がサンバル(野菜カレー)、右がオーラン(ココナッツミルク主体の白いカレー)。 |
![]() アッパムは。米粉で作ったクレープのようなもので、同じ米粉から作るものでも、ドーサより分厚く、ウッタパムより薄い。フライパンで1つ1つ焼いていた。 |
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![]() 写真は、ホテルから海岸に至る道。右側の茶色の建物は学校。 |
![]() これから向かうフォート・コーチンは、その半島の先端部にある。半島なので、陸地伝いにバスで行くことも可能だ。 |
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![]() 下 対岸に見えた島の沿岸には、クレーンが並び、貿易港になっていた。 |
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![]() 左 20分ほどで到着。写真は、桟橋から出てきた、乗場の入口。 |
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![]() 上右 乗場の近くは小さな集落になっている。自転車の修理店など地元向けの店が並ぶ。 左 15分ほど歩くと、車を乗せるフェリーの桟橋があって、混雑していた。 |
![]() 形は知っていたが、思っていたよりも大規模な仕組みだった。大きな網を海中に入れて、しばらくしてから網をすくい上げて、魚をとる。数人がかりで作業していたし、支柱の一部は金属製であったりと、予想していたのとは違っていた。 この写真は、網を海に入れる寸前の様子。 |
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![]() 上右 網を海中に入れている状態のとき。 500mほどの間に7、8基のネットが設置されていた。なお、中国から伝来したわけではなさそうだ。 左 網ですくい上げた魚を売っていた。 |
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![]() 下左 ボイラー跡。かつて、ここに造船所があり、クレーンを動かすためのボイラーとして使われたようだ。 下右 こんなに無防備な犬は初めて見た。 |
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ヴァスコ・ダ・ガマの墓石とポルトガル、オランダ、英国時代の建築 |
![]() さらに17世紀初めにはオランダ領になり、18世紀半ばにマイソール王国が征服するが、18世紀末には英国領になり、1947年の独立を迎える。そのために、ポルトガル、オランダ、英国の建築が残されている街で、マレーシアのマラッカと同じだ。 海岸から街に入って、まず訪れたのは、聖フランシス教会。16世紀初めにポルトガルが建てたインドで最初のカトリック教会なのだが、その後、オランダの時代にプロテスタント教会になり、現在に至っている。 この教会が有名なのは、ヴァスコ・ダ・ガマの墓石があるからだ。ヴァスコ・ダ・ガマは、15世紀末に、ヨーロッパ勢としてはじめて東回り航路でインドのカリカットに到着し、その後、ポルトガルがインドへの進出を強めていった。ガマは3度インドを訪問し、3度目にコーチで死去し、この教会に葬られた。その後、遺体はポルトガルに送られたが、墓石は残された。 |
![]() 内部はオランダ時代にプロテスタントに変わったため、質素で飾りはあまりない。 |
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![]() 上右 ガマの墓石。 ヴァスコ・ダ・ガマにインドで出会い、大航海時代とポルトガルに思いをはせた。 左 祭壇。イエス像などがなく簡素な感じだ。 |
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![]() 上右 ピアース・レスリー・バンガロー。19世紀、英国時代の建物。 左 ヴァスコ・ダ・ガマ広場。露店が出て、地元民でにぎわっていたが、屋台食は避けた。 |
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![]() 上右 コーダー・ハウス。19世紀、英国時代の建物。ここもホテル、カフェとして営業している。 左 プリンセス・ロ―ド。200mほど続く通りの両側に、古い建物が並ぶが、たぶん英国時代のものがほとんどなのだろう。建物の1階はほとんどが土産物屋。 |
![]() 下左 レストランは古い建物を利用しているのではなく、建物を突き抜けた先にあったオープンエアのところだった。 下右 店内。壁がないが、蒸し暑い中での食事になった。 |
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![]() マイルドでと頼んだが、かなり辛かった。 下左 ライス。 下右 別皿にライスとカレーを盛って食べるようになっていた。 |
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![]() 下左 この日は日曜・祝日で午前中しか開いていなかった。それでも人が集まっていたので、祝日にちなんだイベントがあるのだろうか。 下右 教会の裏手にあった幼稚園。古そうな建物だ。 |
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![]() 16世紀初めのポルトガル時代に建てられた、コーチに残る最古の建物のひとつ。 ヴァスコ・ダ・ガマが住んでいたとも言われるが本当かどうかは不明。今はカフェになっている。 |
![]() 各植民地時代を通じて軍事パレードや軍事訓練が行われた広場。 下左 この広場に面したひとつの門。門の上にVOC(オランダ東インド会社)のマークがある。 下右 VOCマークを拡大。18世紀のオランダ時代の末期のものだ。 |
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![]() 16世紀初めにポルトガル総督の邸宅としてできた。 行ったのが日曜でレパブリックデーの祝日で、普段の日曜なら入れたのだが、祝日は休館で中には入れなかった。 |
![]() 下左 タク―ル・ハウス。オランダ時代の建築で、オランダ東インド会社が使用したという。現在は貿易会社が使っていて、門から内部を見るだけ。 下右 デヴィッド・ホール。17世紀のオランダ時代に建てられた。カフェになっていた。 |
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名ばかりのユダヤ人街 |
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![]() ポルトガル時代にコーチの藩王に贈られた宮殿だという。藩王とは、旧来の支配者が一定の支配権を認められたものだ。展示物を見ると、オランダ、英国時代も藩王の地位が認められていたようだ。(日本でいえば、江戸時代に各藩の大名が幕府から藩の一定の支配権を認められていたことに似ている。) 王族が日常生活で使ったものや。英国から独立する前の王族の写真などの興味深かった展示もあったが、撮影は禁止。 |
![]() しかし、1948年にイスラエルが建国されると、コーチのユダヤ人はイスラエルに移住し、今はわずかなユダヤ人が残るのみになり、”名ばかりのユダヤ人街”になっている。 |
![]() 下右 インドに来て以来、コカ・コーラなど清涼飲料水は250ml入りの小さなペットボトルが主体。人によっては、飲み切るのにちょうどいいと思うかもしれないが、自分の場合は、ちょっと物足りない。(一方、ミネラルウォーターは2L入りが一般的で、500ml入りが少なく、扱いにくく不便。) |
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![]() 礼拝所には、シャンデリアがあったりして豪華なのだが、内部は撮影禁止。ユダヤ人はわずかだが、現役のシナゴーグとして利用されているようだ。 |
![]() フェリー乗場までの道のあちらこちらに、ウォールアートが描かれているエリアもあった。 |
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![]() 到着した客を下ろした後、別の入口から待たされている客が乗る。 下左 我先に乗ろうとする人が多くて怖かったので、後で乗った。 下右 船内、座れなかったので、立っていた。 |
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![]() 左 20分ほどで、コーチへ戻ってきた。 |
![]() 地平線近くには雲があり、日の入は見られそうになかったが、少し上の雲の上から雲の中に入る太陽を眺めることができた。 |
![]() 下左 店内。 下右 お茶が出されたのかと思ったら、ピンクの湯だった。味はなく、単に色をつけた感じ。コーチではよく出されるようだ。 |
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![]() 下左 取り皿にご飯をもって、カレーをかけていただいた。 下右 食後に、ミルクシェイクをいただく。 ホテルに戻り、1日を終えた。ホテルにはバーがあるので、一休みしてから行こうって思っていたが、結局、面倒くさくなり、翌日行ってみることにした。 |
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